青年はアデンを目指す

ザブハーンの村で生まれた「サイードの息子、ムハンマド」はやがて故郷を離れ、アデンに暮らすようになる。

彼がアデンに至ったまでの足跡はよく判らない。イブン・アブドゥル=ガッファールとサハーウィーの記録にも一致しない部分が見られる。しかし彼が後年、ムフティーという重職に就いたことを考えると、サハーウィーの言うように「若いころ真面目に勉強し」たということだけは間違いないだろう。また前回、彼の生年として仮定した「1400年前後」が多少前後したとしても、1470年に没した彼の「若い頃」はターヒル朝(1454-)ではなく、ラスール朝の時代であったことは間違いない。さらにサハーウィーによれば「(彼は)短期間教師をしたのちスーフィーになり」と書かれている。この記述に従うなら、彼は若い頃、どこかのマドラサイスラムの学院)に入って、正統派のイスラム学者(ウラマー)の下で学び、その後、彼自身もまたどこかのマドラサで教師となり、他の者を教えるほどの立場になったことを示唆している。


しかし彼がザブハーンを出た後すぐにアデンに向かい、そこで学んだかどうかには疑問がある。ラスール朝の時代のアデンは商業都市としては栄えていたがモスクやマドラサなどの宗教施設や学校は少なかったようだ*1ラスール朝時代のイエメンで「真面目に勉強する」ためにもっとも適した場所といえば、やはりザビードであり、それに次いでモスクやマドラサが多かったタイッズがそれに続く。

栗山*2によれば、ラスール朝時代のウラマーたちの死亡録や活動場所、師弟関係から、当時のウラマーの多くがザビードで諸学を習得していたと考えられる。また中世イスラム史において、ウラマーたちは修学や就職のために広い地域を移動することは珍しくなく、イエメンのウラマーも同様であったという。もし若い彼が学者として身を立てることを決意して故郷を後にしたのなら、彼がアデンに向かったということには、どこか違和感を覚える。


ザブハーニーが若い頃に学んだのがアデンではなく、ザビードやタイッズだった可能性を考えることは魅力的だ…ザビードならば多くのウラマーたちがいるとともに、アビードエチオピア出身の奴隷階層)やウサブ山のスーフィーらと接触する機会があったかもしれない。

またタイッズであれば、ラスール朝時代のスルタンやターヒル家の人々と接した可能性もあるだろう…ラスール朝の時代、多くのスルタンは自らも学者であったからだ。さらに、この頃のタイッズには"al-Qamus"という言語辞典を著した高名な学者、アル=フィールザバーディー(Majd ad-Din al-Firuzabadi al-Shirazi)がいたことも興味深い。彼はイラン南西部のシーラーズ近郊のフィールザバードの出身であり、エルサレムやマッカ(メッカ)などで過ごした後、1395年にラスール朝7代スルタン、アル=アシュラフ・イスマイールI世にイエメンに招致され、アデンにしばらく滞在した後、タイッズへと至った。彼はスルタンに大いに歓迎されてスルタンの娘を娶り、1415年に亡くなるまでタイッズで過ごしている……ザブハーニーが1400年前後に生まれてタイッズで学んだのならば、幼少期に彼から教育を受けたり、ひょっとしたら彼を通じてアッ=ラーズィーやイブン・スィーナーなどのような、ペルシア/イランの偉大な学者たちの文献に触れる機会もあったかもしれない。


…ただし残念ながら、数少ない史料からはこれらの仮説を支持する内容は得られない。ザブハーニーに関する史料で現れる地名は、出身地のザブハーン、アデン、そして「アジャムの地」だけである。ザビードやタイッズで学んでいたという仮説も棄てきれない魅力があるが、何か別の理由があってアデンに行き、そこで出来る限りの勉学に励んでいた可能性も考えるべきかもしれない。アデンには学校こそ少なく教育の場としての役割は小さかったものの、商業活動に伴う訴訟など法的活動に携わるため、それなりの人数のウラマーが活動していたようだ*3。ひょっとしたらザブハーニーが師事したのは、アデンで訴訟問題を扱うウラマーの一人だったのかもしれない。

なおアデンには1431年にマドラサが建設された記録がある。もし彼が「短期間、教師に」なったのがアデンであるならば、このとき建設されたマドラサで教育をした可能性も考えられる。アデンには、ラスール朝スルタンやその関係者が建てたモスクの記録はないようだが、アイユーブ朝時代のスルタンが建てたモスク(Dar as-Sa'adah)や、商人が建てたモスク(Dar Salahなど)はあったようだ*4

*1:栗山『ザビード~南アラビアの学術都市』(オリエント 37-2(1994):53-79)によれば、1228-1249年と1431年にマドラサが建設された記録がそれぞれ一つ残っているだけである。

*2:栗山『ザビード~南アラビアの学術都市』(オリエント 37-2(1994):53-79)

*3:栗山 p.60-61

*4:Porter p.184-5