謎の地「アジャム」

ユーカース『オールアバウトコーヒー』をはじめ、多くのコーヒー本では、彼は「エチオピア(またはアビシニア)に行った」と書かれている。しかしアブドゥル=カーディルの『コーヒーの合法性の擁護』には、厳密には「エチオピア(アビシニア)に行った」という記載はない。ド・サッシーによるフランス語訳では、彼が行った先を「アジャムの地 terre d'Adjam」と訳しており、脚注28で、そこがどこかを論じている。

この件に関しては、サハーウィーの『輝く光』にはそもそも彼が他国に行ったという記述がないことを先に述べてく必要があるだろう。ハトックスはこのことに触れ、さらにスーフィーとなった後の彼が極めて隠遁的な性格であったことを踏まえて、以下のようにやや懐疑的に述べている。

しかし、隠遁的な性癖で評判であった人物が、わざわざ紅海を渡って未知の国へ冒険に赴くほどの重要な仕事をみいだしたというのは、人生の後半になってからはじめて隠遁的性格がでたのだと仮定しないかぎり疑わしい(ハトックス/斉藤・田村 p.24)

もちろんサハーウィーの人物伝に書かれていないからと言って、必ずしも彼がエチオピア(アビシニア)に行かなかったことを意味するものではない。サハーウィーの人物伝にはコーヒーとの関係についての記録もなく、ハトックスはこれを、サハーウィーの時代にはまだコーヒーがあまり知られておらず、サハーウィー自身もコーヒーに関心を持たなかったためではないかと考察している。サハーウィーは、ザブハーニーの渡航などについては瑣末な内容だと考え、彼の伝記に書き残すべき記録だと思わなかったのかもしれない。


ド・サッシーよりも先に『コーヒーの合法性の擁護』のフランス語抄訳を行ったアントワーヌ・ガランは、その"De l’origine et du progrez du Café"で、この「アジャム」を「ペルシア」と訳している。

「アジャム Ajam」という単語は、アラビア半島ないしそこに住むアラブ人を意味する「ジャム djam/jam」に、否定の接頭語「ア- a-」が付いたものである(http://en.wikipedia.org/wiki/Ajam)。字義通りに解釈するならば「非アラブの」という意味になり、広い意味ではペルシア、エジプト、そしてアフリカ大陸側のエチオピアソマリアなどが含まれる。ただし通常は「イラン人の土地=ペルシア」の意味で用いた文献が多いようだ。ペルシア湾を中心に考えた場合、アラビア半島側を「ジャム」、対岸のペルシアを「アジャム」と呼ぶためらしい。ペルシアはオリエントの中でも特に学問が発達した地域で多くのイスラム文献があり、これらの文献が古くから西欧にも紹介されていたためかもしれない。


一方、この「アジャム=ペルシア」とする、ある意味「王道的な」ガランの解釈に対して、ド・サッシーは脚注28で別の解釈を唱えている。

当初はド・サッシーもこれをペルシアと解釈したが、アブドゥル=カーディルの原書には「アジャム」が出てくる部分がもう一箇所あり、そこを「ペルシャ」で訳すと文章が成り立たないという。当該部分はp.419の一節で、ハトックス『コーヒーとコーヒーハウス』にも引用されている。

Je dis dans le Yémen seulement, et non ailleurs, parce que nous ignorons comment et à quelle occasion on a commencé à prendre du café dans le pays d'Ebn-Saad-eddin, dans l'Abyssinie, le Djabarta, et autres lieux de la terre d'Adjam. (ド・サッシー p.419)

[この記録があてはまるのは]イェメンだけである[その他の地域はどこにもあてはまらない]。なぜならコーヒーの出現は、イブン・サード・アッディーンの国とアビシニアの国とジャバルの国と、そしてそのほかアジャム<非アラブ>の地でも見られたが、いつコーヒーが最初に[使用]されたのかは知られていないし、その理由もわからない。(ハトックス/斉藤・田村、p.20)


一方、ガランによる翻訳では次のようになっている(p.20-21)。

Quand je dis que le café étoit dans l'obscurite, il faut entendre dans l'Arabie Heureuse, quoiqu'elle produisit le fruit ou la féve dont on le fait, et dans la Perse, où il étoit peu connu. Car, selon notre auteur, on le prenoit en Éthiopie de temps immémorial. (ガラン p.20-21)

(拙訳:[ここで言う]コーヒーが知られていなかった頃とは、アラビア半島[で知られてなかった]のことを意味する…しかしながら[コーヒーの]実や種子は作られていたようだが。そしてペルシアでもほとんど知られていなかった。この著者によれば、エチオピアで使われるようになった時代は記録されてない)


この一文に関しては、少なくともガランの訳には無理がありそうだ…というのはハトックス/斉藤・田村 p.187の注記には、後半の一文(「なぜなら~」以降)のアラビア語→ラテンアルファベット表記が記載されており、そこを見る限りド・サッシーの訳の方が意味が通る。

Wa-qulnā lā fī ghayrihi li-anna ẓuhūr al-qahwa fī barr Ibn Sa'd al-Dīn wa-bilād al-Ḥabasha wa-al-Jabart wa-ghayrihā min barr al-'Ajam fa-lā yu'lamu matā kāna awwaluhu wa-lā 'alimnā sababahu.

ここで出てくる「イブン・サアド・アッディーンの地 barr Ibn Sa'd al-Dīn」の「サアド・アッディーン」は、イファトからゼイラに逃れたイファト・スルタン国最後のワラシュマ家のスルタンである。1403年に彼が逃亡先のゼイラで殺され、彼の10人の子どもたちがイエメンへ亡命した記録がある。彼らこそが「イブン・サアド・アッディーン(=サアド・アッディーンの息子)」であり、1415年に再びエチオピアに帰還し、ハラー近郊のアダルでアダル・スルタン国を新たに興した。「イブン・サアド・アッディーンの地」は、このアダル・スルタン国のことを意味する*1。「アビシニアの国 bilād al-Ḥabasha」とは「ハバシャ」、すなわちキリスト教エチオピア王国のことを意味している。また「ジャバルの国 al-Jabart / le Djabarta 」については、ド・サッシーが脚注34において「アラブ人はアファト/ワファトと呼び、アビシニア人とヨーロッパ人はイファトと呼ぶ」と注記しており、イファト・スルタン国を意味している*2。つまり、この一文は「アダル・スルタン国キリスト教エチオピア王国、イファト・スルタン国、そしてそれ以外の『アジャムの地』でも(コーヒーの利用が)見られた」という文章になる。


この部分の訳に関しては、確かにガランよりもド・サッシーの方が正しそうだ。しかし「アジャムの地」は本当に「エチオピア(アビシニア)」と考えて良いのだろうか?…実はド・サッシーはガランの訳の誤りを指摘してはいるが、脚注においても「アジャムはエチオピアである」と限定してはいなかった。


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ド・サッシーは脚注で、アブドゥル=カーディルのアラビア語原書での綴りを示している。

これをそのまま西欧語の表記に変換すると、"Barr al-'Ajam (b-r a-l-a-j-m)" となる。"Barr"は「(海に対して沿岸の)大地/大陸」を意味する言葉であることから、ド・サッシーはこれを"terre d'Adjam"(=アジャムの地)と仏訳した。ド・サッシーは、この"Barr al-'Ajam"という地名に関してさらに二つの文献を挙げている:一つはジェームス・ブルースの『ナイル川源流発見の旅』*3、もう一つは1803年から1807年にかけて書かれたアリ・ベイ・アル=アッバーシの『アフリカとアジアの旅行記*4である。前者には紅海を挟んだ西岸が"Ber el Ajam"、東岸が"Ber el Arab"と書かれており*5、後者にはアフリカ大陸の土地が"Berr el Aàjami"、アラビアが"Berr el Aàrab"と呼ばれていたことが書かれている*6。これらを合わせて考えると、少なくとも19世紀頃、紅海を挟んだアフリカ大陸側とアラビア半島側の二つの「大地」が、それぞれ「バール・アル=アジャム」「バール・アル=アラブ」と呼ばれていたことは間違いなさそうだ。


また家島*7によれば、紅海の入口であるバーブアルマンダブ海峡から、ソマリアの首都モガディシュに至る「アフリカの角ソマリア半島を含んだ、アデン湾~インド洋の沿岸部が、16-17世紀頃"Barr al-'Ajam"と呼ばれていたという。

一方、リチャード・バートン『東アフリカへの第一歩』*8では"Barr el Ajam (barbarian land)"について、19世紀半ばのエジプトや中央アジアでは「アジャム」はペルシアのことを指し、紅海の西ではソマリア半島のことを指していたとしている。


「アジャムの地」が指す場所は、どうも時代や地域によって違いがあると言わねばならないようだ。16世紀のカイロやマッカで活動していたと思われるイブン・アブドゥル=ガッファールやアブドゥル=カーディルが、どこを指して「アジャムの地」と呼んだのか、またどの程度の広がりを持つ地域をイメージしていたのかについてはわからない。

ただし

  1. エチオピアからソマリアにかけてのアフリカ大陸の北東沿岸部(ド・サッシー説)
  2. ペルシア(ガラン説)

のどちらかであることは間違いないだろう。

もっとも、アデンとの地理的な関係や、ザブハーニーがそこでコーヒーの使用を目撃したことを考えれば、「アビシニア(=ハバシャ=キリスト教エチオピア王国)」かどうかはともかく、彼が行ったのが「エチオピアの周辺」であったというド・サッシー説の方が、依然として可能性は高そうだ。

そしてド・サッシー以降の誰かが、彼の言う「アジャムの地」を、その中の一地域であるエチオピアやアビシニアだと限定的に解釈したのだろう。ユーカース『オールアバウトコーヒー』で、ザブハーニーが「アビシニアに行った」と書かれているのはそのためかもしれない。

*1:ただしアビシニアなどと違って、ここだけ"barr"という言葉が使われているため、確固とした「国/領土」というより、彼らが暮らす土地、という意味合いが強いようだ。

*2:ド・サッシーによれば、ゼイラもここに含まれており、周辺を含めた広い国がDjabartaである。このDjabarta/Jabartという語は現在の「ジブチ」の語源でもある。

*3:James Bruce "Travels to discover the source of the Nile" 1804, http://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=6fsGAAAAQAAJ

*4:フランス語訳、Domingo Badia Y Leyblich "Voyages d'Ali Bey el Abbassi en Afrique et en Asie" 第3巻

*5http://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=6fsGAAAAQAAJ&pg=124#v=onepage&q&f=false

*6http://books.google.co.jp/books?id=ZWKmULH8BoAC&pg=PA61#v=onepage&q&f=false

*7:Yajima "Some Problems on the Formation of the Swahili World and the Indian Ocean Maritime World", Essays in Northeast African Studies Senri Ethnological Studies 43, 1996, pp.319-354.

*8:Richard Francis Burton "First Footsteps in East Africa", 1856 http://books.google.co.jp/books?id=dzhCAAAAcAAJ&pg=PA12#v=onepage&q&f=false