『珈琲の世界史』紹介(5)

珈琲の世界史 (講談社現代新書)

珈琲の世界史 (講談社現代新書)

今回の『珈琲の世界史』には、ある意味で『コーヒーの科学』のリベンジ、とでもいうか、前著で削らざるをえなかった*1「歴史」の部分を世に出したい、という著者の意図も籠っています。

そのときの紹介記事でも触れたように、じつは前著の草稿段階で「歴史」の章に、8万字以上を費やしていました。概ね、新書一冊分に相当します。

正直、その書き溜めがあるから、前よりも軽く書けるかな……という計算もあったのですが、書き終わってみるとほとんど草稿とは別物になったというのは、きっとよくある話だと……。ただ、一冊まるまる歴史の本にするということで、却って、政治・経済との絡みや、近年の動向などについて、思い切って書き直せたのも事実です。


また「歴史」を書くのに伴って、もう一つ、前著では軽くコラムとして触れるに留めた話題に踏み込むことになりました。それは「情報のおいしさ」という概念です。

前著4章で触れたように、コーヒーは生理的に捉えると「苦くて酸っぱくて焦げ臭い」という、こんなものの一体どこに「おいしさ」があるのか判らない、不思議な飲み物です。そんな飲み物がヒトに受容され、さらには「おいしさ」を感じるためには、生理的感覚とは別の「意味情報から生まれるおいしさ」の存在が不可欠だと考えられます。例えば、イギリスやフランスでコーヒーハウスやカフェが流行った17-18世紀には、「これこそ近代市民の飲み物である」という、社会的にコーヒーを受け入れる風潮がその一つだったわけです。コーヒーの歴史を辿ることは「人類が、いかにしてコーヒーをおいしく感じるようになったか」を解き明かすことにもつながるのです。


また「コーヒーの歴史物語」そのものを知ること、それ自体もまた「情報のおいしさ」を生み出し得ます。例えば、ナポレオンやベートーヴェンバルザックなど、過去の著名人たちが、どんなコーヒーを飲んだのか想像しながら飲むだけでも、その「味わい」はきっと変わってくるのですから*2

*1:文章量を考えずに書きまくったから、という本当の原因は置いておいて。

*2:……もちろん、おいしくなるばかりでなく、まずく感じるようになる可能性もあるわけですが