まずはパナマの歴史をざっくりと

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まずは参考として、パナマの歴史の流れのおさらいから。ただし歴史上話題になるのは、中部からやや東(南米大陸側)寄りで、有名な「パナマ運河」があるパナマシティが中心である。パナマコーヒーの主要産地である西部のボケテ区についてはやや事情が異なるのだが、それについては後の章で述べよう。

コロンブス時代
ヨーロッパ人が到達する以前、中南米にはオルメカ、インカ、マヤ、アステカなど大規模な遺跡を伴う文明が存在していた。現在のパナマに相当する地域にはこのような遺跡文明こそなかったと考えられているが、紀元前2900-1300年頃の土器が出土しており、比較的小規模な先住民の集落が、中南米の他の国々と同じくらい古くから存在していたことは確かである。6世紀以降には、パナマ中部のコクレ文化や、パナマ西部のチリキ文化など、いくつかの先住民文化がそれぞれに発展し、それぞれの地域で、高度な彩色土器や金製品などが用いられていた。
スペイン植民地時代
コロンブスの新大陸発見(1492年)を契機に、ヨーロッパ人がこぞって新大陸に進出した。カリブ海を拠点として周辺地域の探索が行われていく中、パナマにはいち早くスペイン人が到達し(1501年)、1508年にはスペイン国王*1が、サンドマング在住の資産家ニクエサに、パナマを領土として与えている。中南米の他の地域と同様、当初スペイン人たちの関心はもっぱら、先住民たちが持っている金製品を収奪することに向けられた。1519年に現在のパナマシティが作られると、ここが中南米とスペイン本国を直接結ぶ船の拠点となり、16-17世紀の間、主要な貿易港として繁栄した。それに伴ってスペイン人たちが暮らす街が徐々に周辺にも広がっていった。しかし17-18世紀になると、カリブ海・中米地域ではイギリスの海賊による略奪行為が横行する*2。船の襲撃だけに留まらず、スペイン植民地の市街もしばしば海賊による略奪の対象となった。繁栄していたパナマシティも、1671年にイギリス人海賊ヘンリー・モーガンによる襲撃を受けて、略奪、焼き討ちされ、パナマの勢いは衰えた。
スペインからの独立
18世紀後半になると、新大陸の国々ではヨーロッパの旧宗主国からの独立の動きが強まった*3フランス革命後、ナポレオンの内政干渉が引き起こしたスペイン本国の動乱*4は、ラテンアメリカのスペイン植民地にも大きな影響を与え、最終的にスペインからの独立を果たした。植民地時代、パナマは近接する南米諸国とともにヌエバ・グラナダ副王領として統治されていたことから、当初これらの国々とともに「大コロンビア」の一部として独立(1821年)、その後、大コロンビアが分裂すると、ヌエバ・グラナダ共和国(1831年)を経て、コロンビア合衆国(1863年成立)の自治州となった。
二大洋を結ぶ要衝
ヘンリー・モーガンの焼き討ち事件以降さびれていたパナマだが、19世紀半ばになると、今度はカリブ海と太平洋を結ぶ要衝として再び注目された。特に1848年にカリフォルニア・ゴールドラッシュが始まったアメリカでは、多くの人々がアメリカ東部から西部を目指して移動したが、ロッキー山脈を駅馬車で越えて北アメリカ大陸を横断するルートは日数がかかり治安も悪かった。そのため、一旦カリブ海に出て海路でパナマに到達し、パナマ地峡を横断してから、太平洋側から再び船に乗ってカリフォルニアに向かうルートが注目され、多くの人々が利用したのである。この人々の流れを受けて、1855年にはパナマ地峡を横断する鉄道(パナマ地峡鉄道)も開通した。また、スエズ運河を建設したフランス人技師レセップスが直接船を通すことを考え、コロンビアから運河建設の権利を取得してパナマ運河会社を設立し、1881年から建設を開始した。しかし工事は難航し、1889年の会社経営破綻によって計画は頓挫した。
パナマ独立と運河建設
運河計画頓挫の約10年後の1898年、アメリカとスペインの間で米西戦争が起こる。アメリカは勝利をおさめたが、カリブ海地域の国防上の重要性が注目されることとなり、太平洋とカリブ海間を短時間で軍艦が移動できる中米運河の必要性が高まった。この政治的背景からアメリカはパナマに目を付けて、コロンビアと交渉したもののコロンビア議会の反対によって交渉は決裂する(1902年)。するとアメリカはパナマ独立運動家らを支援して、1903年パナマはコロンビアからの独立を果たした。パナマが独立するとすぐに、アメリカは運河建設の権利を取得*5した。さらに関連地区の永久租借権、運河の排他的管理権、内政干渉権を獲得したアメリカは直ちにパナマ運河建設に着工した。レセップスのときと同様、技術的問題と黄熱の流行などで工事は難航したものの、予定より2年早い1914年にパナマ運河が開通した。
アメリカとの確執
パナマ独立の頃、アメリカは「棍棒外交」政策を掲げるセオドア・ルーズベルト大統領の下、ラテンアメリカ諸国に積極的に介入しつづけていた。パナマ運河完成以後もこの姿勢は変わらず、1925年の海兵隊上陸による軍事介入など、パナマは運河外の地域においてもアメリカの影響を大きく受けつづけ、政情不安の状態がつづいた。パナマ国内では運河や用地の返却を求める声が次第に高まり、反米組織のクーデターによる政権交代(1931年)なども生じたが、他のラテンアメリカ諸国と同様、これらのナショナリズム的政治活動は、アメリカの硬軟おりまぜた外交により牽制された。第二次大戦中までは米軍基地や運河の効果でパナマ経済は安定していたが、戦後になると人口増加やインフレ、失業問題により不安定化した。さらに、1956年にスエズ運河がエジプトに返還されたのを受け、パナマでもアメリカからの運河返還を求める世論がわき上がった。1964年に、運河地域にある高校にパナマ国旗を掲げようとした学生20名がアメリカ軍に射殺される事件(国旗事件)が起きたのを契機に世論が高まり、事態の対応に追われたアメリカ、パナマ両政府は運河利用について見直すことを宣言し、1967年に新しい運河利用条約の草案を共同で発表した。
軍事政権の確立と崩壊、民主化
1967年の新運河条約草案では、アメリカの一定の譲歩が見られたものの、パナマの反米ナショナリスト達の多くにとって受け入れがたいものだった。このため1968年、パナマの軍(国家警備隊)に属する反米ナショナリストであったオマル・トリホス中佐らが中心となってクーデターを起こす。クーデターの結果、当時の大統領(アルヌルフォ・アリアス)は失脚してアメリカに亡命し、全ての政党は解体され、トリホスを国家警備隊最高司令官とする軍事独裁政権が確立した。トリホスは反対派は徹底的に弾圧したが、大国アメリカに対して一歩も引かずに交渉を進めたことで民衆の支持を集め、1977年にはアメリカとの間にトリホス・カーター条約を締結して、1999年の運河返還が約束された。しかし条約発効後の1981年、飛行機事故によってトリホスが死亡する*6と、パナマの政治・経済は混乱した。1983年、マヌエル・ノリエガが国家警備隊の最高指令官に就任して実権を掌握すると、軍事独裁政権に対する批判が国内外で強まった。1987年には軍参謀総長を務めたエレーラがノリエガの不正を内部告発し、1988年にはアメリカのフロリダ大陪審が麻薬密売容疑でノリエガを起訴、1989年5月の大統領選挙では民主化勢力が勝利するも政府によって選挙が無効とされ、政局は混乱しパナマは国際的にも孤立した。そして、1989年12月、米軍はノリエガ退陣とパナマ民主化を旗印として、パナマに軍事侵攻を行ったのである(パナマ侵攻)。パナマ侵攻の結果、軍事独裁政権は崩壊して民主化政権が誕生し、ノリエガの身柄は米軍に確保されフロリダ州マイアミで禁固40年(後に30年に減刑)の刑を受けた。その後、1999年12月31日の正午を以て、パナマ運河は正式にパナマに返還された。

*1:当時はカスティーリャ王国

*2:この当時、スペインとイギリスは植民地覇権を巡って対立しており、イギリス王室は海賊行為を黙認していた

*3:北米ではアメリカ独立戦争(1775-83年)によってアメリカ合衆国が独立する。また1789年のフランス革命の直後には、カリブ海のフランス領サンドマングがハイチとして独立(1791-1804年)した。

*4:ナポレオンがスペイン・ブルボン朝内政干渉し、兄ジョセフを王位につけたことに対する反発から、スペイン独立戦争(1808-14年)が生じた。

*5:レセップスのパナマ運河会社が経営破綻した後、運河建設の権利はフランス政府が作った整理会社に委譲されており、アメリカがその権利を買い取った。

*6:暗殺されたとの説もある