ボケテ区の歴史

パナマのコーヒーはそのほとんどが、コスタリカとの国境に近いパナマ西部、チリキ県の標高の高いエリアで生産されている。中でも、パナマ最高峰の火山、ボルカン・バル山(3474 m)の東に位置するバホ・ボケテ*1と呼ばれる峡谷地帯、ボケテ区(ボケテ村、ボケテ地区)で、良質のコーヒーが生産されている。


大きな地図で見る

先コロンビア時代には、チリキ県にはンガベ族やドラスク族などの先住民の集落が存在していた。やがてスペイン人がチリキ県のうち、太平洋寄りの南部の平野に到達すると、彼らの大部分は、他の先住民たちと同じように征服されていった。ただし、彼らの一部は北部の山地に逃れ、森林の中に隠れて暮らすようになった。このため、現在も先住民の血を引く人々も暮らしている。やがてイギリス海賊による略奪が始まると、彼らによってチリキ県の沿岸部も侵略されていき、1732年にはミスキート族の海賊*2が、内陸のダヴィッドにまで到達し略奪行為を行った。彼らの動きを監視するための砦が、ダヴィッドの北方、現在のボケテ区にあたる場所に設けられたのが、ボケテに関するの最初の記録のようだ(1788年頃)。


やがて19世紀半ばに、カリフォルニアのゴールドラッシュが始まると、パナマに大勢の人々が訪れた。1848年に太平洋郵便汽船が、パナマシティからサンフランシスコ、オレゴンに向かう船便の運航を開始したが、あまりの人気に順番待ちの状態となり、人々は船を待つ間にパナマ近郊で生活を営み、簡単な農業を始める者も現れた。パナマの中でも、西部のチリキ県は自然が豊かで土地も肥沃だったため、多くの人々が訪れた。さらにゴールドラッシュが終焉すると、一攫千金の夢破れた人々の中には、行きがけに通ったチリキの肥沃な土地を思い出し、パナマに戻って入植し農業に従事する者も現れた。人々の入植は、平野が広がるチリキ県南部の沿岸から始まったが、やがて北上していき、19世紀後半にはボケテ区近郊まで入植が進み、入植当初からコーヒー栽培が始まった。


1911年、バホ・ボケテの北寄りにあるアルト・リノ*3を中心として「ボケテ区」が正式な行政区として発足した。その後、1916年までに中心地は、現在のバホ・ボケテ中央地区に移動された。この頃から1920年代にかけて、ボケテ区に鉄道や映画館、リゾートホテルが立てられた。世界恐慌後の1935年には二度目の移住ラッシュが到来し、また第二次世界大戦中にはパナマ経済の好況を受けて、パブリックスクールや高等学校、教会や高速道路などが建てられてボケテ区は発展を遂げた。その後、アメリカとの緊張が高まり、トリホス軍事政権の時代に入ると、軍事政権下における規制強化などでボケテ区の活動は一時的に停滞した。しかしトリホスの後をついだノリエガ政権が1990年に崩壊すると、再び発展しはじめた。1994年にはチリキ県出身のバジャダレスが大統領に就任し、ボケテ区の交通網やスタジアムなどの設備を整えている。


1999年、風光明媚で住み良いボケテ区の評判はアメリカやカナダ、ヨーロッパにも広まり、退職した人々が余生を過ごすために移住するようになった(三度目の移住ラッシュ)。2001年には、AARP(全米退職者協会)の機関誌"Modern Maturity"(現 AARP the Magazine) で、2005 年には"Fortune"誌で、それぞれ「退職後に暮らしたい場所、世界のトップ5」の一つに選出され、移住希望者の人気を集めている。2011年には、ボケテ区の100周年式典も開催された。

*1:「バホ」はスペイン語で「低地」の意味

*2:ミスキート族は元々ニカラグアに暮らす先住民だったが、海賊による侵略で元の住処を失い、またイギリス海賊に焚き付けられる形で海賊化していた

*3:「アルト」はスペイン語で「高い場所」の意味。「バホ」の反対。