インドネシア・ハイブリッドの誕生

さび病への対策やその他の優良品種の開発のため、アラビカとほかのCoffea属植物との人工交配は、比較的初期からインドネシアで、特にジャワ島の農園経営者たちによって行われていた。

しかし彼らの試みは思ったように上手くはいかなかった。後に判明したように、アラビカは染色体数44の四倍体(複二倍体)由来で、リベリカやロブスタは染色体数22の二倍体由来であったためである。交配で数千もの種子を作っても、繁殖力がなく種子を作れないもの(三倍体)がほとんどであった。数千の苗木のうち、数十個くらい程度は種子を作れる苗木も生じる事があったが、それらの多くは成長力や品質の面で劣ったものばかりで、見込みのありそうなものが、せいぜい5%ほどだったとされる。


一方、コーヒーを栽培している農園でも、アラビカとリベリカ、ロブスタが混在して栽培される中、これらの種間で偶発的に生じた交雑種がいくつか生まれていた。これらの自然交雑種は、現地で実際に作業をしていた農民によって偶然発見されたものが殆どである。人工交配への取り組みに難航していた農園経営者たちは、この「自然交雑種」をヒントにしようと考え、農民たちに他と変わった木がないかどうか注意して探すように通達していたらしい。こうして、インドネシアではいくつかの自然交雑種が発見、蒐集されていくことになる。自然交雑種でも、その多くは結実が安定しなかったり、思うような性質を獲得していないなどの理由から途絶えていったが、ごく一部のものはその特性が注目され、やがて設立されたICCRI(Indonesian Coffee and Cacao Research Institute)などの研究所でも、研究や種苗保存の対象になった。


インドネシアで誕生した品種の年譜

  • 1886年 ジャワ島でアラビカ×リベリカの交雑種カリマス(Kalimas)が発見される。
  • 1896年頃カリマスに似たアラビカ×リベリカ交雑種が数種類発見され、カウィサリ(Kawisari)と名付けられる。
  • 1900年 インドネシアで本格的な耐さび病品種の開発が始まる。
  • 1903年 スマトラ南部で高収量のパスマー(Pasoemah, Pasumah)が発見される。
  • 1912年 パスマーがジャワ島東部のブラワン農園に移入される。後のブラワン・パスマー(Blawan-Pasumah)。
  • 1914年 ジャワ島西部ボゴールの農園で、最初のアラビカ(マラゴジッペ)×ロブスタ交雑種であるボゴール・プラダが見つかる。
  • 1933年 アラビカ×ロブスタの人為交配から、アルラ(Arla)が作出される。

カリマス(Kalimas)は、1886年、ジャワ島中部ボジャ地区のカリマス農園で発見された、アラビカとリベリカの交雑種である。アラビカとそれ以外の交雑種としては、世界で初めて見つかったものである。さび病に耐性を示すことは、1893年に初めて報告され、親に当たるアラビカとリベリカの両者に比べて、よりさび病に対する抵抗性が強いことが明らかになった。カリマスの評判は広まり、その栽培も広がっていったが、1898年にはカリマスにもさび病が発生しはじめ、やがてほとんどがさび病に見舞われてしまった。


カリマスの発見から約10年後、これと良く似たものがジャワ島のいくつかの農園で同時期に見つかった。これらは発見された農園の一つの名前から、カウィサリ(Kawisari)と名付けられた*1。カウィサリもカリマスと同様、アラビカとリベリカの交雑種であった。カリマスにさび病が蔓延した後しばらくは、カウィサリにはさび病が見られず、生産者らの期待が寄せられたが、やはりその数年後にはさび病の前に屈してしまった。


インドネシアさび病の本格的な研究が始まったのは、1900年になってからだとされる。この頃、ジャワ島東部のバンゲラン地区にさび病研究などを目的とした試験農場が設けられた。この特別な農場には、各地の農園で見つかったコーヒーノキが持ち込まれ、初期の研究がスタートした。

1903年スマトラ島南部にあるパスマー農園で高収量のアラビカが発見され、農園の名前をとって、パスマー(Pasoemah, Pasumah)と名付けられた。1912年にジャワ島東部に移入され*2、ここでも高収量でよく生育したことから、周辺の農園に広まっていった。1911年にオランダがベスキシュ研究所(Besoekisch Proefstation、後のICCRI)を設立し、ここでこの品種の改良が行われた。当時この研究所があったブラワン農園の名前から、この改良品種はブラワン=パスマー(Blawan-Pasoemah, BLP)と名付けられた。ブラワン=パスマーは高収量であっただけでなく、アラビカでありながら、さび病への抵抗性も当初は高かった。このことが生産者に受け、インドネシア各地に広まっていった。


こうして、インドネシアでの品種改良が一気花開くかと思われたのだが……実はそうはならなかった。前回述べたように、ちょうどこの時期、インドネシアにロブスタが持ち込まれたためだ。

オランダ政庁は、ヨーロッパ資本のプランテーションによる栽培独占を必ずしも良しとはせず、「持ち主不在の土地」を国有地化して現地農民に貸与する*3という農地開放政策を行った。このことが手伝い、インドネシアの諸地域で小規模な農園経営も次第にさかんになっていく。これは特にジャワ島以外の地域で顕著であった。これらの小規模農園にとっては、使い物になるかどうか判らない新品種の開発よりも、ロブスタを栽培する方がすぐに「お金」になった。インドネシア全体で見ると、品種を改良しようという風潮は「ロブスタの発見」にみな満足したことで、徐々に縮小していったのである。


とは言えもちろん、現地での新品種開発が完全になくなってしまったわけではない。

1900年以降に、ジャワ島西部ボゴール地区の農園で、世界で初めてとなる、アラビカとロブスタの自然交雑種が見つかっている。この木は、1914年にジャワ島東部のバンゲランの試験農場に持ち込まれ、ボゴール=プラダ(Bogor Prada)と名付けられた。これは、1881年に移入されていたマラゴジッペとロブスタのハイブリッドであった。

1933年には、アラビカとロブスタの人工交配*4から、アルラ (Arla) と呼ばれる交雑種も作成された。耐さび病性に優れていたが、収量が低かったため、あまり栽培はされなかった。

*1:Kawisari A, B, D, A-Iの4つのタイプがあった。

*2:最初に持ち込まれたパンコール(Pantjoer, Pancoer, Pancur)農園の経営者がOttolanderであり、彼はここでアラビカの変異種の一つであるコラムナリスを発見している。

*3:当時、オランダ政庁は「インドネシア現地の民族には土地所有の概念がない」という見解を示していたため、多くの土地が国有化された。

*4:厳密には、アラビカ C. arabicaと、C. laurentiiの名で移入されていたロブスタとの交配種。'Arla'の名はそれぞれの種小名の頭二文字を並べたものである。