他産地からの移入種
上述したインドネシアで誕生した耐さび病品種は現在はすでに下火である。現在の栽培品種のほとんどは、起源を辿ればインドやポルトガルなど、他の国由来の耐さび病品種に辿り着くものが主流となっている。
他の国々では、これらの耐さび病品種は、さらに戻し交配を重ねて、品質改善が試みられた。しかしインドネシアでは、割と「そのまま」で、栽培されたものも広まっている。おそらくロブスタが先に普及したことから、「それよりもましな品質の品種」というだけでも十分だったのだろう。また歴史的に見て、さび病による被害が頻発した地域でもあるため、出来るだけ耐性が確実なものを、ということで広まったとも考えられる。
他の産地からインドネシアに持ち込まれた耐さび病品種
- (1864年 エチオピア野生種*1がジャワ島東部に持ち込まれる?)
- (1927年 ポルトガル領東ティモールの個人農園で、すぐれた耐さび病性のアラビカ×ロブスタ交雑種、ハイブリド・デ・ティモール(ティモール・ハイブリッド、HdT)が発見される)
- 1928年 エチオピアからエチオピア野生種が「アビシニア」 Abyssinia の名で持ち込まれる。
- (1942年日本軍のインドネシア侵攻~1949年インドネシア独立)
- 1957年 インドで開発されたSライン(インドネシアでの名はリニS Linie S)が持ち込まれる。
- (1959年 ポルトガルのさび病研究所(CIFC)が、ティモールとカトゥーラを交配し、矮性耐さび病品種「カチモール」を輩出、1960年代に東ティモールで栽培)
- 1950年代、USDAが採集したエチオピア野生種が導入される。
- (1976年、アチェ独立運動:2005年にインドネシアと自由アチェ運動が和平協定)
- (1976年、東ティモールの併合:1999年の住民投票を受け、2002年に再び独立)
- 1978年 東ティモールからオリジナルのハイブリド・デ・ティモールを採集し、ティムティム(TimTim, Timor Timur, 東ティモール)の名で、1979年アチェで栽培が開始される。
- 1979年 アチェ近郊にあるジャルーク地区の農園でカチモール系のアテン(Ateng)が採取される。
エチオピア野生種に由来するもの
インドネシアは、エチオピアから持ち出された野生種を初めて栽培した産地でもある。さび病が蔓延する前、1864年にジャワ島東部のマラン近郊にあったリンブルフ農園に持ち込まれたことが文献に記されている。ただし、このときのコーヒーノキの子孫は残っていないようだ。
その後、1928年に、P.J.S. Cramerがエチオピアコーヒーの現地調査*2に赴いた。その際、生育のよい数本のコーヒーノキを選び、その種子を採集してインドネシアに持ち帰った。これが現存するものとしては、最も古いエチオピア由来の栽培品種である。これらはエチオピアの古い呼び名から「アビシニア Abyssinia」と名付けられ、さらに「アビシニア-1」「アビシニア-2」などの番号が付けられていた。アビシニアはいずれも部分的な耐さび病性を持ったアラビカであり、少なくとも7種類のものが存在していたようだが、この中で「アビシニア-3」が耐病性と成長力、品質の面で有望な品種だと見なされたようだ。その後、この「アビシニア-3」もさび病の前に屈してしまったが、現在でもインドネシアの一部では「さび病に弱いが、高品質な古い品種」として栽培が行われている。スマトラ島で栽培されている「ランブン」Rambung *3 もこのアビシニアに由来する品種である。
1950年代、アメリカ農業省(United States Department of Agriculture)が中心になって、エチオピア野生種探索の多国間プロジェクトが行われた。このときに採集されたサンプルのうち、3つの系統が独立戦争後のインドネシアに持ち込まれ、"United States Department of Agriculture"の頭文字をとって「USDA」と名付けられた。この3系統のうち、USDA-230762 という株が耐病性と成長力などの面で有望視された。その性質は、エチオピア野生種のグループのうち、「S.4-アガロ」に似ていると言う。インドネシアでは現在、このUSDA-230762が「USDA 762」、あるいは単に「USDA」という名前で栽培されている。ただし耐さび病性はアビシニアと同様、部分的である。
Sライン
1957年には、インドで開発されたSラインの品種*4がインドネシアに導入された。インドネシア語では「リニS」Linie-S とも呼ばれる。Sラインの複数の品種が導入されたが、その主流になったのはS-288とS-795である。S-288はインドで発見されたアラビカとリベリカの自然交雑種であり、部分的なさび病耐性を有する。さらにこのS-288を、同じくインドで発見された耐さび病性のアラビカ変異種であるケントと交配したものがS-795である。
これらのSラインの品種は、ジャワ島のジェンベルにあったICCRIの試験農場に持ち込まれた。当初、特にS-795はエレファントビーン*5の割合が高かったため(全体の10%程度)、その割合が少ないものが選抜された。これに由来するS-795が、ジェンベルと呼ばれる。現在インドネシアの代表的な品種の一つであり、特にスラウェシ島のタナトラジャ地区やバリ島などでは主力品種に挙げられる。また、北スマトラのトバ湖周辺で栽培されているラスナ Lasuna *6も、FAO(国際連合食糧農業機関)の資料によれば、ジェンベルと同じものである。
この他Sラインとしては、S-795の子孫にあたるS-1934が1970年にインドから導入されている*7。
ティモール系
1927年、インドネシアの東部にある、ポルトガル領東ティモールの個人農園で、アラビカとロブスタの自然交雑種が発見された。このハイブリッド品種は、ポルトガル語で「ハイブリド・デ・ティモール Hybrido de Timor, 以下HdT」、英語では「ティモール・ハイブリッド Timor Hybrid」あるいは単に「ティモール」とも呼ばれる。耐さび病品種として、最も有名、かつ最も世界に普及したものだ。
このHdTは、偶然四倍体化したロブスタと、アラビカの間に生じた自然交雑種だと考えられている。1950年代に、東ティモールで採取されたこの品種がポルトガル本国のさび病研究所(CIFC)に送られ、そこで本格的に研究されたことで、この品種の有用性が明らかになった。すべてのさび病に対する耐性を持ち、アラビカとの交配が可能であるという特徴を持つ。この特徴から、多くの耐病品種を生み出すもとになり、後に中南米を第二次さび病パンデミックによる危機から救うきっかけにもなった品種である。
細長い果実を持ち、品質的にはアラビカとロブスタの中間的な性質であって、優れているとは言いがたい。このため世界的に見ると、HdTそのものを栽培している地域は多くはなく、アラビカに戻し交配した品種が中心になっている。これに対してインドネシア、特にスマトラ島北部ではHdTそのものの栽培が行われている。
スマトラ島にティモールが持ち込まれた背景に、1970年代半ばに生じた二つの民族紛争も影響している。一つは東ティモール問題、もう一つはスマトラ島北端のアチェ独立運動である。
東ティモールは、インドネシアの東(スンダ列島の東端)に位置するティモール島の、東側半分を占める地域である。元々、ティモール島はポルトガルにより植民地化されていたが、1859年にリスボン条約で西半分(西ティモール)がオランダに割譲された。
1949年に、他の島々がインドネシアとして独立したのに対し、東ティモールは依然ポルトガルの植民地のままであり独立の気運が高まっていた。これに対してインドネシアのスハルト政権は東ティモールのインドネシア領有を主張していた。
1975年、東ティモールがポルトガルからの独立を宣言したが、翌1976年にスハルト政権が武力介入して東ティモールを併合した。海外からの非難はあったが、冷戦当時の社会情勢から日本やアメリカなどの西側諸国はこれを黙認した。
スマトラ島北端に位置するアチェは古くからのイスラム王国が発展し、オランダの植民地支配に最後まで抵抗を続けた、独立気運の高い地域である。日本軍による進出時にはインドネシアと別の独立国になることを期待したが果たされず、またインドネシア独立直後には北スマトラ州の一部とされたことへの不満から不安定化し、アチェ特別州として位置づけられたという経緯を持つ。石油などの資源が豊富なスマトラ島が重要な経済基盤であるのに対し、人口で勝るジャワが中心地になっていることに対する不公平感も加わった。
1976年にアチェの実業家ハッサン・ディ・ティロが自由アチェ運動を発足し、インドネシアからの独立運動を展開するも、当時のスハルト政権により鎮圧されハッサンはスウェーデンに亡命した。1979年にハッサンはスウェーデンで亡命政権を樹立している。
なおその後、東ティモールは、1999年に国連監視下で行われた国民投票の結果を受けて2002年にインドネシアから独立。自由アチェ運動はその後も海外から独立運動を展開していたが、2004年のスマトラ島津波被害の後、独立よりも災害復興を優先する気運が高まり、2005年にはインドネシア政権との間に和平協定が結ばれている。
東ティモールのコーヒーノキが、スマトラ北部のアチェに初めて送られたのは1978年である。この年に始まった、国際開発支援プロジェクト (1978 International Development Assistance Project) の一環として、中央アチェ(Aceh Tengah)でのコーヒー栽培開発に焦点があてられた。これに伴って(ポルトガルのCIFCからではなく)、東ティモールから直接、HdTが中央アチェのガヨ地区に設けられた、ガヨ・コーヒー研究所 (Gayo coffee research institute, Balai Penelitian Kopi Gayo)に送られたのである。
この東ティモール由来のHdTは、インドネシア語で「東ティモール」を意味する「ティモール・ティムール」Timor Timur*8、通常は略して「ティム・ティム」Tim Timと呼ばれている*9。
1983年にIDAPに続いて、オランダの援助による中央・北部アチェ農村開発プロジェクト(Central Aceh and North Aceh Rural Development project, CANARD)が始まる。このプロジェクトはさらに小規模農民向けの支援などにも展開しながらつづけられたが、1992年にオランダとインドネシアの意見が一致しなかったことから突然の中止に至っている。IDAPの頃からCANARDの終了までに、主にオランダによって25種類以上の品種が移入され、何回かに亘って東ティモールから"Tim Tim"の移入も行われた。
この中からさらにガヨで栽培されているうちに、異なる性質を示すものも生まれたようだ。現地の農民に「ボー・ボー」Bor Bor *10 と呼ばれている品種もティムティムの一種である。これは1982年にオランダからアチェの一農園に送られたものに由来する、多収量の変異種を指すものである。
カチモール系
東ティモールからHdTが初めて送られた翌年(1979年)、中央アチェの農園に植えられたHdTの中から、明らかに他のものとは異なる、丈の短い矮性のものがいくつか見つかった。当初、これはHdTが突然変異を起こしたものだと考えられた。そこで、この中央アチェ(Aceh Tengah)で見つかった新しい変異種はアテン Ateng と名付けられた。最初に見つかったアチェ近郊のジャルーク農園の名前からジャルーク(Jaluk)、もしくはアテン・ジャルーク(Ateng-Jaluk)とも呼ばれる。
ただし、その後の調査で、このアテンが実はカチモールと同じものであることが判明した。
カチモール(カティモール、Catimor)は、HdTと、ブラジルで発見されたブルボンの矮性変異種であるカトゥーラを交配させて作成したハイブリッド品種であり、HdTの持つ耐さび病性と、カトゥーラの持つ矮性ならびに高収量という特徴を兼ね備えた品種である。1950年代、ポルトガルのCIFCでHdTの耐さび病性について研究されたが、同時期に、HdTをアラビカ種に戻し交配して、高品質な耐さび病品種を作る取り組みもなされた。その中で、もっとも有用だったのが1958年に輩出されたカチモールである。CIFCでは1960年代から東ティモールでカチモールを試験栽培しており、アチェに送るHdTの種子の中に、この種子が誤って混入していたものだと考えられている。
アテンは、HdTと同様に耐さび病性に優れ、矮性であるため収穫等の作業もやりやすく、なおかつ高収量の品種であった。このことからスマトラ島北部の農民の間に「放たれた野火のように」またたく間に広まっていった。
アテンの他、P-88と呼ばれるコロンビア由来のカチモール*11や、BP-542と呼ばれるコスタリカのカチモールも導入されている。ただし、これらは品質などの問題から、商業栽培されるには至らなかったようだ。
スマトラ北部にアテンが広まるにつれて、それらを栽培している農園では、矮性で耐さび病性だが、アテンとは若干性質の異なるコーヒーノキが見られるようになった。現地農民は、これらの中から見栄えがよく、よく育つものを中心に、それぞれ独自に選抜して、独自の名前で呼んでいる。アテンより大粒で豆が細長いアテン・ジャントゥン(Ateng Jantung:ジャントゥンは「心臓」を意味する現地語)や、豆が大粒で太めのアテン・スーパー(Ateng Super)などは、比較的の農園で栽培されている。
これらがアテンそのものから選抜されたものなのか、同じ農園で栽培されている他の品種との交雑によって生じたものかは不明である。アチェのコーヒー農家はリスクヘッジを主目的として、6-8種類の品種を同時に植えることが多いため、品種間交雑が起こる頻度は高い。
ただし計画的な交配による育種でないため、生まれた品種の由来が何なのかを特定することは困難であり、またその遺伝的な特徴も不安定になりやすいという問題がある。
実際、アテン自体も現地に広まっていく過程で、当初の耐さび病性が徐々に失われる傾向が見られている。また古い樹齢のものでは収穫量がかなり低下してしまうことなどから、インドネシアの農民の関心はアテンから離れつつある。
アテンに変わって、スマトラ島で近年注目を集めている品種がシガラー・ウタン(Sigarar utang、またはシガラルタン、Sigararutang)である。耐さび病性に優れた矮性の品種であり、しかも1-2年で実を付け(通常は3-4年)通年収穫できるため、非常に生産効率が高い。"Sigarar utang"とはインドネシア語の"segera membayar hutang"、「早く借金を返す quickly pay dept」という言葉から付けられた名前で、他の品種よりも早く利益が出せることにちなんでいる。シガラー・ウタンの起源もはっきりとは判っていないが、新芽がブロンズ色になるティピカの特徴が見られることから、アテンにティピカ系の何らかの品種が交雑して生じたもののようだ。ただし近年では、シガラー・ウタンにも、さび病被害が出るものが現れているようであり、将来的にはアテンと同じ道を辿るのではないかという予想もある。
カルティカ(Kartika)やアンドゥン・サリ(Andung sari、Andungsari)は、比較的低地での栽培が可能な矮性品種であるが、さび病に対しては弱い。これらの起源についてはっきりしたことは判っていないが、SCAAなどによれば、おそらくはアテンに由来するカチモール系の矮性品種が耐さび病性を失ったものに由来するのではないかと考えられているようだ*12。スマトラ島でも見られるが、現在はジャワ島の主力品種の一つになっている。
*1:「■エチオピア野生種・半野生種」を参照。
*2:この頃、エチオピアでもコーヒーさび病が発生していたが、エチオピア野生種には全体的にさび病耐性が高いものが多く、葉の一部にさび病変が現れても、木全体に広がりにくいことが知られていたためである。
*4:「■さび病パンデミックの衝撃」「■インドにおけるコーヒーの歴史」参照。
*5:「■スゴイ大豆(おおまめ)」参照。
*6:バタク語で「ニンニク」を意味する語らしい。なぜこのように呼ばれるかは不明。
*7:S-795がS-288×ケントのF2世代、S-1934がF4世代の選抜種である。
*8:元々、ティモール島という名前自体が「(インドネシアの)東」ということに由来している。
*9:アメリカのsweetmariaなどでは以前、"Tim Tim Blangili"(ティムティム・ブランギリ)という銘柄名で呼んでいたため、この名が品種名であるとの混乱を招いているようだ。現在は、これらの業者も品種名としてはTim Timを採用している。
*10:トバ・サモシール地区にある地名から名付けられたものか?
*11:タイのコーヒー研究所から持ち込まれた。コロンビア→ケニア(1975)→タイ(1984)→アチェ(1988)。
*12:その他、カトゥーラやサンラモンなどの矮性品種に由来する可能性も考えられる。業者によってはこれらはカトゥーラ系として分類している場合もあるようだ。