インドネシアコーヒーの歴史と品種(2)

#前回からの続き。耐さび病品種の新たな展開


悪名高い「強制栽培制度」によって多大な利益をあげたオランダであったが、やがて植民地の惨状が知れ渡る*1とオランダ国内からの批判が噴出した。この反対世論を受け、強制栽培制度は1870年頃から順次廃止されることになる……しかし、その中でコーヒーの強制栽培制度はもっとも遅くまで続けられ、完全廃止されるに至ったのは1916年になってからのことである。


ジャワ島東部ではオランダ政府直営の五つの大農園*2が大きな力を持ち、これらの農園の経営責任者達は新品種の探索や栽培にも積極的であった。リベリカやロブスタの導入と時期を同じくして、「新しい優良品種」の探索も行われた。

*11860年東インドから帰国したオランダ人エドゥアルト・ダウエスデッケルが、ムルタトゥーリというペンネームで、植民地の惨状を描いた小説『マックス・ハーフェラール』を著し、これが大きな話題作となった。

*2:イジェン高原地方のBlawan、Jampit、Pancoer、Kayumas、Tlogosariの5箇所。