「三原種」の揃い踏み

その後、インドネシアのコーヒー栽培は大きな災厄に見舞われる。19世紀後半に発生したコーヒーさび病の蔓延*1である。ケニア1861年に発生したさび病スリランカ(1868)、インド(1869)に到達し、それぞれの国のコーヒー栽培を数年のうちにほぼ壊滅させた。インドネシアでも1876年に最初に発生し、数年後には壊滅的な被害をもたらした。

20世紀初期には、インドネシアではアラビカ、リベリカ、ロブスタが混在して栽培されることになった。当初、さび病によって被害を受けたアラビカを、リベリカが置き換えるような形で広まり、さらにその後、それをさらにロブスタが置き換えるような形で広まった。一時期には、インドネシアのコーヒーのほとんどがロブスタに植え替えられたような状態になったという。


#ロブスタとリベリカの年譜


リベリカ

1870年頃に西アフリカで発見された「新種の」コーヒーノキは、1874年にW. Bullによって正式に記録され、1876年にHiernによってC. libericaと命名された*2。この新種のコーヒーノキ、いわゆる「リベリカ」は、ジャワ島には1875年に持ち込まれた。

当初リベリカは、さび病耐性というよりも他の特徴、すなわち、ほぼ通年で開花・結実し、またジャワ島の多雨な低地にも適応した種であることで注目された。特に、ジャワ島西部の標高の低いエリアでは、1896年にはほとんどのアラビカがリベリカに置き換えられていたという記録が残っている。この頃には耐さび病性があることも知られるようになり、インドネシア各地に徐々にその栽培が広まっていった。

リベリカの豆は大型で見栄えがよく、当初はアラビカよりもやや高価に取引されていたらしい。その後もアラビカとほぼ同じ値段で取引されていたが、1898年にはリベリカの価格は大幅に下落した。また、その耐さび病性は不完全なものであることも明らかになっていった。既に1881年頃から、さび病変が表れたリベリカの木がいくつか見られるようになり、また後に蔓延した新型さび病には無効であった。20世紀に入る頃には大部分がさび病に見舞われ、リベリカの栽培は縮小していった。


ロブスタ

19世紀末、ガボンおよびコンゴで、もう一つの新種のコーヒーノキが発見された。C. canephora、いわゆる「ロブスタ」である*3インドネシアには1900年*4に導入されている。

ロブスタは耐さび病性に非常に優れていただけでなく、多雨な低地に適合し、生命力が旺盛で、高収量であった。このことがわかると、インドネシア、特にジャワ島の農民らはロブスタに切り換えていった。その結果、インドネシアは世界に先駆けた「ロブスタ栽培の開拓者(パイオニア)」になったのだと言える。

しかし、未知の領域を開拓する者には、未知のリスクが伴う。インドネシアも後に、その「リスク」によるしっぺがえしを受ける羽目になってしまった。ロブスタは耐病性や収量の面では優れていたものの、その品質は明らかにアラビカよりも低かったのだ。

この頃、既に「ジャワ」のアラビカは、イエメンの「モカ」に次ぐブランドとして確立されていた。19世紀中頃に導入された水洗式精製のアラビカは、その青緑色の概観から「ブルージャワコーヒー」(Blue Java Coffee) と呼ばれていた。しかしロブスタへの転作によって、かつてはモカに次ぐものであった、ジャワのブランドイメージは凋落の途を辿っていったのである。


一方、ロブスタはアラビカに比べて、カフェインやクロロゲン酸の含量が高く、極深煎りにすると、非常に強いコーヒーの苦味を生じる。この性質は、缶コーヒーやインスタントコーヒー、あるいは一部のブレンドコーヒーなどで、「値段の安い、増量剤」とするにはうってつけのものであった。このため、ジャワのブランドイメージは、やがて「ジャワ・ロブスタ」という名前と共に、低品質な「混ぜ物」用のコーヒーの代名詞へと変わっていったのである。

さらにもう一つ、コーヒー産地としてのインドネシアの凋落につながった理由に、日本も無関係ではなかったことにも触れておく必要があるだろう。


インドネシアはオランダ領東インドとして、オランダの実質的な統治下にあった。俗に「350年に及ぶ植民地支配」と呼ばれる。20世紀初頭には民族独立運動の気運も高まったが、反乱に対する弾圧から成功はしなかった。

第二次世界大戦時の1940年、オランダ本国はドイツに降伏。1942年には日本がオランダ領東インドに侵攻したことで、オランダによる植民地支配は瓦解し、1944年に日本軍政下でインドネシア独立宣言がなされた。しかし、オランダによる支配を逃れた一方で、インドネシアのコーヒー生産は、日本の敵国に廻ったアメリカやヨーロッパなど、それまで重要であった販路を(一時的にではあるが)断たれてしまうことになった。第二次世界大戦終戦後、独立宣言を無効とするオランダ本国との間で、インドネシア独立戦争を余儀なくされる。1949年に正式に独立を勝ち取ったものの、長い戦争により農地は荒れ、インドネシアのコーヒー栽培には大きな傷跡が残されたのである*5


なお、インドネシアには、この「三原種」以外のコーヒーノキも多数移入され、栽培されている。代表的なものとしては、

が挙げられる。

*1:「■さび病パンデミックの衝撃 」参照

*2:命名前から、西アフリカで小規模に栽培が始まっており、1872年にイギリスのKewにそのサンプルが送られている。

*3:発見の経緯は、「■愛と野望のロブスタ 」参照。

*4C. robustaとして同定されていたものが1900年に、C. canephoraが1902年に導入された。このため、文献ごとに記載の違いが見られるようだ。

*5:ただし、その一方で戦後のインドネシアのコーヒー栽培復興には、UCCキーコーヒーなど日本企業の努力もあったことも特筆しておきたい。

*6:カネフォーラの栽培品種。当時の学名はC. quillou

*7:リベリカ種のデウェブレイ変種C. liberica var. dewevrei。当時の学名はC. excelsa