「カネフォーラ」の発見

#ここからロブスタの歴史(後編):学名を巡る混乱へ

さて40年近くの時が流れ、時代はまもなく20世紀になろうかというとき。実はこの頃、世界のコーヒー栽培は脅威に見舞われていた。「コーヒーさび病」である。1861年中央アフリカで最初に発見されたコーヒーさび病は、インド洋を渡ってスリランカに到達、そこからインド、ジャワへと瞬く間に広がり、各産地に壊滅的な被害を与えた。スリランカに至っては、コーヒー栽培を断念して茶の栽培へ切り替えられたのは周知の通り。

当然ながら、さび病に対して有効な防除策が検討され、またさび病に対して耐性を持つコーヒーノキの探索も精力的に行われた……当初は耐性を認められ有望視されていたリベリカ種も、次々と「新型」が現れるさび病の前に屈してしまい、ジャワやインドのコーヒー栽培の壊滅も目前と思われていたその時、「すべてのさび病に耐性を持つ」ロブスタが発見され、ジャワでの栽培が行われるようになった…これにより、イエメンに次いで歴史が古い*1ジャワでのコーヒー栽培は、首の皮一枚で救われたのである。


…数年だけ時代を遡ろう。

19世紀の終わり頃、ジャン=バティスト・ルイ・ピエール http://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Baptiste_Louis_Pierre というフランス人植物学者がいた。ピエールは、アジア(特にベトナム:仏領インドシナ)の植物に造詣が深く、サイゴン動植物園を設立したことで有名だが、その一方、西中央アフリカガボンの植物の研究にも熱心であったことはあまり知られていない。ピエールは、ガボンの植物標本の蒐集家たちと交流して、多くの植物標本を集めた。あまりにも多くの標本があったために、自宅とは別に保管のための家を借りていたとも言われ、後にパリ自然史植物園に寄贈した際には、アジアとガボンの標本だけで20,000点を超えていた。何せこれだけの数の標本だから、その一つ一つを細かく分類し、学名を付けるまで手が回らなかったことは想像に難くない。


今日の「ロブスタ」…正しくはカネフォーラ種は、このピエールの標本の中に埋もれていたものである。ガボンの蒐集家の一人で、宣教師であったクライン(Klaine T.J.)からピエールに贈られ、パリに持ち込まれていた標本の中にそれはあった。それを見いだしたのが、ドイツ人植物学者、アルブレヒト・フレーナー http://www.ipni.org/ipni/idAuthorSearch.do?id=2931-1 である。彼はピエールの標本の中から、Coffea属の植物を見つけ出し、C. canephoraという学名を付けた。1897年のことである。

「学名を付けた」と言っても、具体的なイメージがしづらいと思うが、ある植物の学名が正式なものと認められるには、一般に次のような条件が必要になる。(1)「基準となる、一つの植物標本」、(2)「特徴の記載」、(3)「ルールに従って付けられた学名」をセットにして、(4)植物学分野の論文誌に掲載する、というものだ。ピエールは標本を収集して残し(ひょっとしたら特徴の記載まで行っていたかもしれないが)、正式な形で学名を発表しておらず、フレーナーが「代わりに」最初の学名を付けて発表した、という扱いになる。C. canephora Pierre ex A.Froehner の「~ex~」というのはそういう場合の命名者表記法だ。

このときの「カネフォーラ」は、あくまで植物標本しか存在しないものであり、「今日のロブスタ」と呼びはしたが、いわゆる「ロブスタ」と直接のつながりがあるわけではない。どちらかというと学術的、植物学的な観点から収集された標本に過ぎなかった。

*1:実際は、インドやスリランカへの移入の方が早いが、まぁ大々的な栽培としては、こう表現しても構わないかと思う。