探検隊はアフリカの奥地に野生のコーヒーノキを見た!!!(らしい)

「愛と野望のナイル」という映画(1990年公開)がある。この映画では、アフリカ奥地を探検し、ナイル川の源流をつきとめることに情熱を燃やした二人の探検家と、その確執がテーマになっている。もちろん映画はフィクションを織り交ぜたものになっているが、実際の経緯は以下のようなものであったらしい。


一人は「バートン卿」こと、リチャード・バートン。白人として初めてメッカからの生還(当時アラブ人以外は生きて帰れぬと言われていた)を遂げ、「千夜一夜物語」や「カーマスートラ」などの翻訳でも知られる著名人。もう一人は、無名だが野望にあふれた英軍士官ジョン・ハニング・スピークであった。


スピークとバートンは共に、ナイル川の源流を探し当てるべく、東アフリカから中央アフリカの奥地(大湖沼帯)に向けて探検を行った。困難な探検の末、やがて二人は、タンガニイカ湖に辿り着く。このとき病に罹っていたバートンはここがナイル川の源流だと考えて、帰路に付くことを提案したが、現地人から「もう一つの湖」の存在を聞いていたスピークは、そちらを探検するべきだと主張し、どちらも一歩もゆずらなかった。

結局、仲違いの末にバートンは元来た道を引き返し、スピークは「もう一つの湖」を目指しながら、帰路で合流することにした。そして、スピークはその道でもう一つの、アフリカ最大の湖を発見したのだ。しかし、そのときの記録が不完全であったため、結局バートンを納得させることはできず、二人の間に出来た溝は埋まることがなかった。


さらにいざこざは続く。帰路、バートンは再度熱病に臥し、イエメンのアデンでの静養を余儀なくされる。その隙に、スピークは一人で英国に凱旋し「ナイル川の源流を発見した」というスピーチを大々的に行った…もちろん、自分が見つけた湖こそがその源流だとして、ビクトリア女王の名前から「ビクトリア湖」と名付けて。

手柄を独り占めされた形のバートンは当然激怒し、二人の確執は決定的なものになった。帰国後スピークはすぐに、ジェームス・アウグスツス・グラントを伴い、「ビクトリア湖からナイル川の注ぎ出す場所」を探し出す旅に出た。その結果、ビクトリア湖北部のリポン滝を見つけ、そこからナイル川へと下っていくことで、その探索に成功した……しかし、バートンとの論争に結着を付けることなく、1864年にスピークはピストル自殺を遂げる。

その後、ナイル川水源の探索はリビングストンとスタンリー*1によって、ビクトリア湖に注ぎ込む川の存在が明らかになったことで、スピークとバートンの両者ともに間違っていたことが判明して、結着がついた。


この当時の「手記」は、今はProject Gutenbergで読む事ができる。

いずれの手記においても"coffee"の文字が見られるが、当時の東アフリカ(現在のタンザニア付近)では既に植民地政策に伴うコーヒー栽培が行われていたし、実際に"coffee cultivation"という記載も彼らの手記に認められる。しかし、スピークの遺した手記に、興味深い記載を見いだすことができる。

On the return to Unyanyemb〓, a native of Msalala told me that he had once travelled up the western shore of the N'yanza to the district of Kitara, or Uddu-Uganda, where, he says, coffee grows,(中略) he described the island of Kitiri as occupied by a tribe called Watiri, who also grow coffee;(攻略)


("What Led to the Discovery of the source of the Nile" より)

(略) and a large bundle of country coffee. This grows in great profusion all over this land in large bushy trees, the berries sticking on the branches like clusters of hollyberries.


("The Discovery of the source of the Nile" より)

これらの記載がビクトリア湖南西部~西部にかけての、カラグエ(Karague, Karagwe)や、ウガンダで残されている。特に後者は「(アラビカに比べ)背が高く、実が多く付く」というロブスタの特徴を彷彿とさせるものがある。実際、地域的に見ても、この辺りは十分ロブスタの自生可能なエリアであり、彼らが見聞きしたコーヒーノキがロブスタであったとしても不思議ではない。スピークはまた、"chew coffee"、すなわちこれらのコーヒーの実を噛んで利用した、と思われることも書き残しており、そうだとすれば、西洋人としては初めてロブスタコーヒーを利用した人物だと言えるかもしれない。


ただし、もちろんこれらはあくまで推測の域を出ないことである。ロブスタが植物学的に注目されるようになるまでは、あと40年近く待たなければならない。

*1:リビングストンは途中で消息を絶ち、探索に当たったスタンリーが彼を発見。源流探索の途中でリビングストンは命を落とすが、スタンリーが彼の遺志を継いで、水源となる川の発見に成功した。