医学と薬学と食品学：『コーヒーの医学』を読まずに背景だけ語る（１）
野田先生が書いてる内容は、「コーヒーが好きだから／興味がある」ということでコーヒーと健康のことを知りたい、という人にとっては受け入れにくかったり、これまで聴いてたことと話が違う、ということで拒絶したい部分もあるかもしれません。が、医科学的には、野田先生の内容の方が正しいです……野田先生の立ち位置的には疫学からの視点であるということに加えて、出発点が「コーヒー」ではなく「疾患のリスク因子」だ、という辺りを知っておくとわかりやすいかも。
コーヒーとヒトの健康の関わりについて考える学術分野は三つあります。一つは医学、一つは薬学、一つは食品学です。これらは互いに全くばらばらというわけではないですが、その中心というか関心の向く部分に若干の違いがあります。
医学では主に「疫学」の分野でコーヒーとヒトの病気との関わり（長期で現れる確率的作用）が研究されます。またコーヒーやカフェインなどを直接ヒトに飲ませたときに現れる作用（急性に現れる確定的作用）を検証することも、疫学の一部である「実験疫学」として行われることが多いです。後者は、医学以外でも扱うことがありますが、ヒトを対象にした投与実験になると、医学部で行われることが多いので。
薬学も医学と同様、ヒトの病気との関わりに関心が向きますが、その目指すゴールは異なります。薬学の場合、コーヒーそのものではなく、コーヒーに含まれる成分から何か、病気の治療に結びつくものが見つからないか、というのが主な関心になります。
食品学は、さらに大きな枠で言えば、農学の中で研究されてることも多いですが、食品としての安全性に関心が向けられることが多いです。残留農薬やカビ毒など、微量でもヒトの健康に害を及ぼす可能性のあるものに注目し、それらがどれだけ食品に含まれているか、またそれらがどこまで許容できるのかと言った、食品安全学の立場からの研究がメインです。それから栄養学的な研究も、食品学の中に含まれます。
このように、三つの分野に少し違いがあるわけですが、「『コーヒー』を飲んだらヒトはどうなるのか？」という、根本的な質問に直接の答えを与えてくれるのは……はっきり言うと「医学」のやり方です。薬学や食品学での研究成果は、「この質問に対する答え」の面で、重要性は一段下がります。
薬学ではコーヒーにはごく微量しか含まれていないような成分で、普通にコーヒーを飲んでも全く効果が出ないようなものでも研究の対象にします。見つけてしまえば、後はその成分だけを集めて「くすり」にすればいいのですから。また、そうして見つけた成分を元にして、もっといい「くすり」になる化合物が出来上がったら、当然そちらを採用します。だから、薬学の研究のゴールは「コーヒー」そのものからは離れた方向を向いてます。このことを予め理解していないと、「コーヒーから見つかった成分の作用」と「コーヒーそのものの作用」を混同することになります。普通に「コーヒー」を飲んで現れる作用は後者であって、前者が現れるとは限らないです。
それから、薬学では実験手法的に、ヒトではなくハツカネズミ（マウス）などでの動物実験や、培養細胞を使ったin vitroの実験を多用することが多いです。これは、多くの「くすり」候補の中から有望なものを見つけるためのスクリーニング方法として用いられる類いのものです。これらはあくまで、ヒトでの有効性を確認する前の、前段階的な実験であって、これらで「効果があった」からと言って、すなわちヒトでも同じ効果があるとは限りません。…というより、むしろ期待外れに終わるものの方が多いくらいです。
食品学もこれと似たような事情があります。さらに（これを言うと、世界の食品学研究者を敵に回しそうで怖いですが）、「コーヒーそのもの」についての疫学研究の方が、ほかのどんな個別の食品よりも先を行ってるもんで*1、他の食品と同じ物差しで、単純にコーヒーを計られてもなぁ、という部分はあります*2。
ただ、食品学の分野は、残留農薬やカビ毒、アクリルアミドの法的な基準値を決める部分に食い込んでますから、いくらコーヒーから見ると「立ち遅れてる*3」研究分野だからと言って無視するわけにもいかない、というのが現状です。
