『コーヒー おいしさの方程式』紹介 (8)

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『コーヒー おいしさの方程式』。よく行く書店でも見かけるようになり、おかげさまでアマゾンの売り上げランキングでは「グルメ一般」部門で1位になるなど、好評をいただいています。


補足説明の第一弾として、最初のテーマは「テロワール」「ミクロクリマ」の解題。

コーヒー栽培の過程で、「テロワール」は、生豆を生み出すさまざまな環境的要因を指す概念です。元々は、フランスの伝統的なワイン生産の場で古くから用いられてきた言葉で、そのワインを生み出す生産地の気候や土壌、地勢、場合によっては人など、ワイン造りをとりまくさまざまな要因を示す言葉、とされます。英語にはこれにあたる言葉がないため、そのまま使われています。日本語だと「風土」という言葉が比較的近いようですが、議論が分かれる部分があるため、やはり「テロワール」という言葉が用いられているようです。

1978年、エルナ・クヌッセン女史が「スペシャルティコーヒー」の語を国際会議で用いた際*1、"Special geographic microclimates produce beans with unique flavor profiles."という説明とともに、コーヒーの世界にもその概念が取り入れられました。アメリカでは、ジョージ・ハウエルの「テロワール・コーヒー」という店名の由来にもなっています。


コーヒー豆が農作物であることを踏まえれば、これはごく当たり前の考え方とも言えます。しかしこの「テロワール」という語はかなりの曲者で、ワイン業界ではその解釈や意義を巡って、しばしば紛糾しています……気候や土壌などの条件だけとするのか、生産者による介入を含むのか。ボルドーブルゴーニュなどそれぞれの生産地で伝統的に築きあげられた香味の特性のどこまでがテロワールによるもので、どこからがそうでないものなのか。そもそもテロワールに良否はあるのか。テロワールの重要性をやたらに持ち上げ礼賛する業界の一派や、テロワールの構成要素を細かく分析しようとする人、そしてそれらに対して有名な作り手が気分を損ねたエピソード……などなど、挙げていけばきりがありません。

ワイン業界でのテロワールを巡る論争を追っていくと、正直に言って、こんな「論争の種」をコーヒーの世界に持ち込もうという人の気が知れない……本気で取り組もうとすると、それくらいに厄介で面倒なものだとも思っています。


幸いなことに、コーヒーの世界では、まだこうした論争は(少なくとも表面上は)ありません。ただ、これは「良質なコーヒーを作るテロワール」というものに満場一致の答えが得られてるからではなく、まだその中身にまで踏み込まれていないからだと考えた方がよさそうです*2。ワイン業界から借用されてきた概念が、まだコーヒー業界では成熟していない、とも言えるかもしれません。


Coffee: Growing, Processing, Sustainable Production

実はコーヒーの品質と、気候や土壌、立地などの環境要因や施肥その他の人的な栽培要因を調べた論文は、そこそこの数があります。コーヒー栽培に関する諸条件について詳しくまとめられた専門書の一つに、Jean Nicolas Wintgens "Coffee: Growing, Processing, Sustainable Production"があります(今はペーパーバック版が出てるので、随分とお買い得です…それでも1万円以上ですが)。コーヒーの品質と、気候や土壌その他の条件の関係についても、よい総説になっています。


しかし、これまではいわゆる「コモディティコーヒー」について研究されたものは多く、また重要なデータが得られているのですが、スペシャルティ側からの研究成果については数も少なく、結果も過去のデータを再確認するにとどまるなど、特に目立った研究報告はないのが現状です*3

スペシャルティ時代になって、クヌッセン女史の言葉にもある「ミクロクリマ(微小気候)」という言葉がコーヒーの世界でも用いられるようになりました。しかし本来、この言葉はミクロに対してマクロ…つまりその気候帯全体の特性である「マクロクリマ(大気候)」というものがあって、その下に一定範囲の地域の特性である「メゾクリマ(中気候)」*4、そして農園や、畑の区画単位での「ミクロクリマ」と続き、ワインなどでは樹や枝振りごとの「キャノピー・ミクロクリマ」に至る、そういう連関した考え方です。

コーヒーの品質と、こうした地形や気候の関係は「メゾクリマ」までのレベルでは過去の研究とデータがある一方で、「ミクロクリマ」のレベルではまだきちんとしたデータが示されていない、というのが現状です。


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でも、それで終わるのではつまらない。だったら「これまでのデータで、どこまで見えるのか」。それをやってみたのが右の原図です。今回、本書で「From Seed to Cup」というテーマで考えるに際して、文献を集めまくって得た情報をまとめました*5。一枚の図に、いろいろな要素を網羅的に詰め込んでいるので判りにくいものになってますが、本書では、イラストレータ森田氏の手によって、見違えるほどきれいに生まれ変わり、その分見やすくなったと思います。


この図から何が読み取れるのか…「いろんな要因が相互作用してるので複雑だ」、とりあえずそれだけ再確認していただければ、まずは十分です。

例えば「日照」一つに注目しても、いろいろな形で作用します……日照はコーヒーノキ光合成を促し、豆への成分の蓄積を促します。しかし一方で日照が良くなることは、農園の気温を上昇させる方向にも働き、気温が上昇すると果実の生育は早くなるのですが、早く熟してしまう分、豆に成分が蓄積される時間が短くなるため、気温が高いほど品質低下すると言われています*6。また晴れた日が続くほど日照は長くなるので、日照の長さは降水量と相反します。それは土壌中の水分量や空気中の湿度などにも影響し……と、本当にきりがありません。

重要なことの一つは、日照や降水量、気温などを決定する要因の上位に「気候帯」があるということ。これは、例えばカリブ海周辺や南米、東アフリカ、東南アジアといったコーヒー生産地が、それぞれエリアごとに違った気候帯に属していることと繋がります。これは、こうした「大まかな生産エリアごと」に、ある程度の香味の共通性が見られることを解くカギの一つになるかもしれません。


また近年は、日本のコーヒー屋さんにも自ら産地に行って視察や買い付けを行う人が増えてきています。そのとき、例えば「うちの農園は隣のヤツのより日当りが良いから、コーヒー豆の質がいいんだ」と、ある生産者が売り込んできたとき、その言葉をどう受け止めたらいいでしょうか? 「日当りがいいと高品質なのか!」と思いながら飲むのと「いやいや、日当りの影響は結構複雑だからな…」と思いながら飲むのでは、無意識のうちにも味の感じ方に違いが出てこないとは限りません。ただ単に、その場で楽しんで味わうだけならばそれもいいでしょう。しかし、それを買い付けて帰るべきかどうか、となるとまた事情は変わってきます(もちろん、きちんとしたカッピングができる人ならば、こうした思い込みを最大限排除した上での評価ができるはずですが)。実際に飲んでみて、確かにこの農園のコーヒーがおいしかったとしても、では「もっと日当りのいい農園を探せば、もっといいコーヒーがあるはずだ」となるでしょうか?……ひょっとしたら、その地域で最高のコーヒーは、標高が高い雲霧林の中の「日当りのよくない」ところにあるかもしれません*7。そう考えると、なかなか複雑なのです。


ましてや、これがスペシャルティ時代でテロワールという言葉が変に普及して「うちの農園はテロワールが素晴らしいから、コーヒー豆の質がいいんだ」などと言われたら? ……一体その農園のどこが良いのか、何が良いのか。もちろん、私自身も「テロワール」という概念自体を否定するつもりはありません。けれど「なんでもかんでも『テロワール』とさえ言っておけばオーケー」みたいな状況も、また面白くはありません。


またワインのように、栽培から醸造、そして「味作り」までを産地で行い、さらに産地が消費地にもなる場合の「テロワール」と、焙煎や抽出などを経て「味作り」が完成されるコーヒーの場合の「テロワール」には、また別の考え方も可能かもしれません。山内秀文先生辻静雄理研究所)が「日本のコーヒーの『テロワール』」という言葉を使うことがありますが、ワインやコーヒーに対するそれぞれの国や地域での嗜好や文化も、そこに携わる人の手を介して「取り巻く環境=テロワール」の一つになると言えるのかもしれません。「テロワール」という言葉から、さらに深く掘り下げていくことで見えてくる新しい可能性に期待しています。

*1スペシャルティコーヒーという言葉自体は1974年に発表していた。

*2:加えて、生産地で栽培から醸造にいたるまでを行うワインと、消費国での焙煎抽出などの加工過程が香味形成に大きなウエイトを占めるコーヒーとの違いも考えられます。

*3:"microclimate","terroir"などのキーワードを用いた論文があまりないことに加えて、使ってはいるけれど実際に見ているのは標高の違いなど、古くから言われてきたものにとどまるものが多かったです。やや目を引いたものでは、コスタリカの報告が一つあります。距離があまり遠くないが、斜面の向きがカリブ海側と太平洋側それぞれに向かって異なる、二つの農園のコーヒーの香味特性が異なることを述べてますが、一種のケースレポート的なもので一般化は難しいです。また斜面の向きを「ミクロクリマ」の構成要素と分類するのが妥当かなどの問題もありそうです

*4:メゾクリマという段階を置くかどうかは人によっても異なります。これは「ミクロクリマ」を広義に扱うか(マクロクリマ以外すべてとするか)、狭義に扱うか(農園単位にするか)で、複数の農園が位置する「地域」をミクロクリマに入れるかどうかが異なることによります。

*5:こうした「細かく分析したデータ」を示すことには、正直言うとためらいもあります…例えば有名なワイン生産者がテロワールについて詳しく聞かれた際に「テロワールテロワールだ」と答えたというエピソードもあり、こうした還元主義的なアプローチを好まない生産者が出てくることも予想されます……実際は、この手のデータもブラジルなどの生産者から出てきたものですが、一口に「生産者」と言ってもいろんな人がいるので。また、こうした各要素の相互作用が著しい「複雑系」について、還元主義的アプローチがどこまで有効かについては意見が分かれます……ただ、じゃあそれに代わるアプローチでどこまで大きな成果を上げられるのかというと、それはそれでなかなか難しいのが現状なのですが。

*6:標高が高いほど高品質になるのは、この気温の影響が最も大きいと言われています

*7:元々コーヒーノキは陰生植物で、全日照の20%程度の光があれば、十分な光合成が行えることが報告されています。