『コーヒー おいしさの方程式』紹介 (6)

「細部」を深く掘り下げつつ、常に「全体像」を見る。


これが本書全体を貫く姿勢でもあります。「科学的な視点から見たコーヒー」というのも、コーヒーの全体像から見るとその一面を見ているのにすぎませんし、私自身、普段から科学的な視点だけでなく、歴史的、社会的、経済的な視点や、実際に焙煎・抽出を重ねてきた経験など、さまざまな視点からコーヒーを捉えるよう心がけています。

これは「語り手」である田口氏も同様で、田口氏もまた、さまざまな場所さまざまな時代に人々に愛されてきたコーヒー、そのすべてをさまざまな視点で俯瞰的に見ながら「コーヒーの全体像」に迫っています。


本書の読みどころの一つは、こうした田口氏の「コーヒー観」。氏が語る文章の端々にそれがあらわれています。あまりに自然に、ごく当たり前のことのように書かれているから、下手をすると見落としてしまうかもしれません。しかし国際コーヒー協定などの政治経済的な背景や、日本国内、世界各地のコーヒーの変遷など、氏の卓越した見識が随所から読み取れます。

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カフェを100年、続けるために

田口氏は、いわずと知れた「カフェバッハ」のオーナーです。1968年に創業し、またたく間に当時のコーヒー業界で頭角を表した有名店で、その詳しい歩みは『カフェを100年、続けるために』に書かれています。


1970-80年代の前半にかけて、日本は空前の喫茶店ブームの時代にありました……日本には、過去3回の大きな喫茶店コーヒー店ブームがあります。(1) 戦前(1920-30年代前半)のカフェー/コーヒー専門店ブーム、(2) 70-80年代前半の喫茶店/自家焙煎店ブーム、(3) 1990年代末(バブル崩壊後)からのカフェブーム……その中でも全国の喫茶店数などから言えば、70-80年代前半の(2)のブームが最大のものです。


第二次大戦の時代コーヒーの国内輸入は途絶え、それとともに戦前の(1)の時期に花開いていた、国内のコーヒー文化の継承も途絶えてしまいました。そして終戦後、戦前を知る一部のコーヒー人たち(銀座ランブルの関口氏など)が乏しい物資の中でそれを復興させようと尽力しました。

戦後復興に沸き立つ50、60年代とともに、コーヒー豆の輸入再開と輸入自由化、そしてインスタントや缶コーヒーなどの普及で消費が拡大していく中、70年代にいざなぎ景気が終了して迎えた「脱サラ」ブームから、喫茶店の個人開業の時代がやってきます。さらに、やがて喫茶店の数が急増すると、他の競合店との差別化のために高品質志向で自家焙煎を始める店が増えだしました。これが70-80年代前半の自家焙煎店ブームにつながります。皆が競い合うように抽出や焙煎などの技術を磨き、世界にも例を見ない日本独自の高度な焙煎や抽出の技術や理論が発展したのがこの時代で、80年代前半にそのピークが訪れます。


しかしその後、80年代後半になって日本がバブル時代の好況を迎えると、もっと割のいい商売への転向圧力に圧されて、個人経営の喫茶店は縮小していき「冬の時代」に突入していきました。

そのバブルも1990年代に入ると崩壊し、それを契機に再び個人開業が増加に転じます……これが記憶にも新しい「カフェ」ブーム(3)の始まりです。

そしてカフェの数が急増すると、他の店との差別化のために高品質化を指向する店が現れます…ちょうどこの頃、アメリカではスターバックスエスプレッソドリンクの販売で成功を治め、スタバが販売戦略として前面に打ち立てていた「スペシャルティコーヒー」という言葉(その考えそのものは1960年代後半にまで遡ります)が耳目を集めるようになっていました。そして2000年代に入ると、日本でも「高品質化」の旗印として「スペシャルティコーヒー」という言葉が掲げられるようになっていったわけです。

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コーヒーに憑かれた男たち (中公文庫)田口氏は、それぞれに焙煎や抽出技術を磨いた「名人たち」が群雄割拠する時代から、確かな理論と技術に基づいたコーヒー作りを行いつづけ、80年代の東京を代表する自家焙煎店の「御三家」(銀座ランブル、吉祥寺もか、南千住バッハ:『コーヒーに憑かれた男たち (中公文庫)』参照)の一角として、カフェバッハは全国にその名を轟かせ、一目おかれる存在になりました。


その後自家焙煎店に「冬の時代」が到来し、やがてそれが「雪解け」してカフェブームが訪れます。この新世代のカフェの中から新たに高品質化を指向して、アメリカの「スペシャルティコーヒー」のスタイルを取り入れるところが現れます。田口氏も前著『スペシャルティコーヒー大全』を著し、2012年から日本スペシャルティコーヒー協会(SCAJ)の会長として活躍されており、今や日本のスペシャルティコーヒーを代表する存在になっています。


「深煎りネルドリップ」に代表される70-80年代の日本のスタイルと、エスプレッソや「浅煎りプレス式」に代表される90-00年代のアメリカ・スペシャルティのスタイル。二つのスタイルはかけ離れており、田口氏はそのどちらにも属さないながら、両方の時代を通じて日本の高品質指向のコーヒーを牽引してきた人物だと言えます。スペシャルティ以前と以後でカフェバッハの本質的なスタイルが「変節」したわけではありません…いつの時代にも良い部分を積極的に取り入れて「進化」を続けてはいますが、流行に流されることなく独自のスタンスを貫いています。それを可能にしているのは、田口氏もまた、そのどちらのスタイルをも「コーヒーの数ある多様性の一つ」として包含できる、より広い「コーヒーの全体像」を見すえているからです。


さてスペシャルティコーヒーという言葉が出てきたが、本書はスペシャルティコーヒーを扱う本ではない。スペシャルティコーヒーをも含めたコーヒー全体を俎上にのせ、旧著で述べたことをおさらいする中で、科学的分析検討を加えた本である。(本文 p.11より)


本書では田口氏が見てきた、70-80年代に流行した深煎りネルドリップ、直火焙煎や炭火焙煎などにも、またスペシャルティ時代になって注目されている精製法の変化や香味表現、コーヒープレスなどにも、«あるものはあるべくしてある(本文 p.74)»という考えから、それらが「理に適っている」点…合理性を見いだそうとしています。理に適った部分があるからこそこれらは生まれ、そしていろんな人々が愛して止まないものになったのですから。