イエメンにおけるスーフィズムとイブン・アラビー

黎明期

アイユーブ朝がイエメンに侵攻(1173)した12世紀後半、アイユーブ朝のもとでスンニ派体制が構築されていったが、これとほぼ同時期にイエメンにスーフィズムが伝わったと言われている。この時代は、アラブ周辺の他の地域では、スーフィーの聖者(ワリー)を中心とするスーフィー教団(ターリカ)が拡大していき、しばしば大教団化してスーフィズムが民衆に浸透しはじめた時期である。以前述べた北アフリカのシャーズィリー教団もその例の一つである。

しかし、イエメンではこうした大スーフィー教団は形成されず、依然として聖者を中心に、それを「師」と仰ぐスーフィーたちが集まった小さな教団がいくつも存在したという。彼らは「師」の庇護のもと、街から離れた郊外に小屋を立てて共同体をつくって、そこで何にも邪魔されずにスーフィーの修行に明け暮れた。この当時、イエメンを旅した人達の記録には、ティハーマ地方(イエメンの海岸部)にこうしたスーフィーの小屋がいくつも点在していたことが記されている。スーフィーの聖者たちは、弟子達にスーフィーの「教え teaching」を口伝し、自らも修行を行っていたが、時折その共同体の人々や街の人々を相手に「奇跡」を示してみせたり、雨乞いの祈祷を行ったりして人々の畏敬を集め、また民衆や部族の有力者からの寄付を受ける暮らしを送っていたという。


ここで思い出されるのはモカの事例である。16世紀以降、コーヒーの輸出港として大きく発展したモカであるが、イエメンでのコーヒー黎明期にあたる14-15世紀頃の史料には、その地名もあまり出てこない。ザビードとアデンの間を旅した人の記録の中に、途中で立ち寄った小さな町の記録が見られる程度だ。モカに伝わる説話からは、伝説的なシャイフ・ウマルや、アリー・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリー(1418年没)という、シャーズィリー教団のスーフィーたちが町の創設に関わっていたことが伺える。キャーティブ・チェレビーの『世界の鏡』によれば、シェイフ・ウマルはボウルに入った水に導かれてモカの町に到来し郊外の小さな小屋で生活していたし、誤解からモカの首長に追放された後は弟子達とともにウサブ山で修行生活を送り、後にモカを襲った疫病から町の人々を救ったと伝えられる。この当時、エジプトのシャーズィリー教団の流れを汲むスーフィーたちの小集団がモカに流れ着いて定住し共同体を形成したか、もともとモカ周辺にいた少数部族がやってきたスーフィーに教化されたか……どちらにせよ、14-15世紀のモカスーフィズムは、まさに上述のような小教団の典型例であったと思われる。


イブン・アラビー理論の伝来

こうしたイエメンのスーフィーたちの中に、イブン・アラビーの教えを伝えたものたちもいたという。いつ誰が伝えたものかははっきりしない*1ものの、アイユーブ朝末期からラスール朝が始まる13世紀頃に伝わったと言われる。13世紀イエメンの伝説的なスーフィー、イブン・ジャミル(アブー=ル・ガイス・イブン・ジャミル、1253没)や、同じく13世紀の、「生きたままの蛇を食べる」など過激な修行で知られるリファーイー教団スーフィー、アフマド・イブン・アルワン(1266没)は、イブン・アラビーの恍惚的かつ神話的な神秘主義に感銘を受けていたと言われる。またエルサレムからイエメンにやってきて、ラスール朝の王子アル=アシュラフ・ウマル(後の三代スルタン、1296-1297在位)に歓迎された、リファーイー教団の高名なシャイフ・アル=クドシ(ウマル・ブン・アブドゥル=ラーマン・ブン・ハサン・アル=クドシ、1289没)と、その助手イブン・アル=ナバは、タイッズの大学で、イブン・アラビーのものと同じような存在一性説の講義を行っていたと言われている。

イエメンの(スーフィー出身でない)学者の中で初めてその教義に触れたのは、アル=ヤヒャーウィー(アブ=ル・アティーク・アブー・バクル・イブン・アル=ハッザーズ・アル=ヤヒャーウィー、1309没)である。彼はマッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)に修学のための長期滞在中にイブン・アラビーの信者たちから多くを学んだ。またイエメンに帰国するときに彼の著書を謄写したり購入して持ち帰り、興味を持つものには誰にでも貸し出したという。彼はまた、ラスール朝4代スルタン、アル=ムアヤド・ダウード(1297-1322在位)との親交が深かった。スルタンは宗教や内政問題に関する彼の助言に全幅の信頼を置いて重用したため、他の(伝統的スンニ派の)学者(ウラマー)たちは彼に嫉妬し、しばしば「怪しげな魔法を使う」などと彼を非難したという。アル=ヤヒャーウィーは、イエメンにイブン・アラビーを紹介したことが最も確実な人物だが後継者に恵まれなかったため、彼の死後、イエメン中枢部でのスーフィズムはいったん下火になる……14世紀末、アル=ジャバルティーが現れるまでは。


アル=ジャバルティーによるスーフィズムの熱狂

アル=ジャバルティーが表舞台に現れるのは、7代スルタン、アル=アシュラフ・イスマーイールI世 (1377-1400在位)の治世である。ラスール朝ザビードやタイッズを首都として、下イエメン一帯を統治していたが、北イエメンには彼らの強大なライバル、ザイド派イマームが君臨していたことについては、以前にも何度か触れた。この当時のザイド派イマームは、アル=ナースィル・ムハンマド・サラールッディーン(在位1372-1391)である。1372年に彼の父が亡くなったのに伴いザマールでその後を継ぎ、1381年にサヌアにいた親族を策略によって打ち負かした後、彼はその勢力をティハーマ地方まで伸ばそうとした。そしてラスール朝のスルタンがザビードにいたときに、大勢の軍隊を率いて攻め込み、包囲戦をしかけたのである。


強大なザイド派イマームの軍勢を前に、このときのザビードの兵力は明らかに少なく、篭城を余儀なくされたラスール朝スルタンの劣勢は明らかであった。このためザビードの人々の士気は落ち、スルタンの命運も尽きるかと思われたとき、群衆の中から一人のスーフィーの聖者が進み出て、こう言った。「勝利は我らがスルタンにある。イマームの軍勢は間もなく退くだろう」

人々は半信半疑であったものの、そのスーフィーの持つ力強いオーラとカリスマ性に、尽きかけていた士気を奮い立たせた。当のスルタンにとっても、とても信じられない言葉であったが、それに希望をかけるしかなかった。……だが、どうであろう。聖者の予言した通り、数日後、イマームの軍勢はどういうわけか撤退をはじめたのである。かくしてスルタンは命拾いをしたのであった。*2……そう、このときの聖者こそがアル=ジャバルティーである。


このことでアル=ジャバルティーは、一躍「時の人」となる。ザイド派への勝利を「予知」したのみならず、彼らの突然の撤退も、この聖者が起こした「奇跡」だとザビードの人々は考え、そのカリスマの虜になった。スルタンはこの一件でアル=ジャバルティーにすっかり心服し、彼に惜しみなく寄進しただけでなく、宗教、政治から私事に至るまで相談するようになった。こうしてアル=ジャバルティーはスルタンの腹心として、親友として、また相談役としての立場についた。スルタンの後ろ盾を得たアル=ジャバルティーは、ザビードの学校(マドラサ)において、スーフィズムとイブン・アラビーの思想についての講義を行うようになり、彼の元にはスーフィーたちや学者たちが集まった。民衆たちもまた聖者の「奇蹟」にあやかろうとした。彼が著したイブン・アラビーの本は飛ぶように売れ、講演を行うともなれば大勢の人々が集まった。こうして、厳粛なスンニ派学術都市であったザビードに、スーフィズムの熱狂が広まる。派手な色に満たされたスーフィーの祭祀や「サマー」と呼ばれる歌や踊りを伴う儀式が、町の至る所で行われ、周辺の地域にも広がっていった。


スーフィーウラマーの確執

しかしザビードの学者(ウラマー)たちには、こうした動きを快く思わなかった者たちも多くいた。

スーフィズムの熱狂や陶酔は、伝統的なスンニ派の考えを重んじる「敬虔なムスリムたち」にとっては「悪しきビドア」に他ならない。スーフィーはズィクル(夜通し行う祈祷)やサマーのときに楽器を演奏しながら歌い踊り、そこからトランス状態になることで没我の境地に至り、神に近づこうとする。しかし、もともと伝統的スンニ派では(意外に思われるかもしれないが)、娯楽のための歌や楽曲演奏、踊りは禁忌(ハラール)なのである。また上述したように、スーフィズムの中でもイブン・アラビーの存在一性説は特に異端的と見なされるものであった。その急激な拡大は、敬虔な伝統主義者から見るとザビードの「イスラーム法秩序の崩壊」に他ならなかった。

また既に高い地位にあったウラマーたちには、スルタンや民衆の歓心や敬意が奪われたことに対する嫉妬や危機感もあった。イブン・アラビー派の台頭により、自分たちの身分やこれまで築き上げてきた学者組織の体制*3を脅かすことを恐れたウラマーたちは、アル=ジャバルティーとイブン・アラビー派のスーフィーたちを厳しく非難した。


アル=ジャバルティーは、類いまれなカリスマ性の持ち主であったものの、スーフィーの聖者としてはありがちなことに、イスラーム諸学に関する知識には乏しかったと考えられる。後世の反イブン・アラビー派の学者が意地悪く語ることによれば、「アル=ジャバルティーのもとには、病気の治療や様々な悩み事の相談を望んで多くの民衆がおしかけたが、どんな質問に対しても、この無知なスーフィーは『コーランのヤースィーン章 *4を唱えなさい』というだけ」であったという。学識に長けたウラマー相手では、おそらくまともに論争することすらできなかった可能性はあるだろう。こうしてスーフィーウラマー間の確執が始まる中、スルタンは一人の人物を国外から招聘した。


擁護派、反対派による政争

スルタンが呼び寄せた人物、それは以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130622#1371918104)にも少し触れたペルシア出身の言語学者、アル=フィールザバーディー(1329-1414)である。彼は1329年にイラン南西部のシーラーズ近郊のフィールザバードで生まれ、シーラーズ、バグダード、ダマスカス、エルサレム、マッカ…と各地を転々としながら学問に励み、"al-Qamus"という言語学の大辞典を編纂した、当時屈指の高名な学者である。1395年、スルタン・アル=アシュラフ・イスマーイールI世の招きに応じて、彼はまずアデンに訪れ、そのすぐ後にタイッズへと招かれた。その偉業に相応しい待遇として、スルタンは彼を裁判官(カーディー)達の長「大カーディー」に任命し、さらにスルタンの娘を妻として彼に与えた。


アル=フィールザバーディーは就任して間もなく「イブン・アラビー派の思想はイスラーム法に照らして合法であり、一部のウラマーたちの批判は不当だ」と、彼らを擁護するファトワー(公的見解)を発行している。このときのファトワーは、スルタンの求めに応じて発行されたものだった。アル=フィールザバーディー自身はスーフィーではなかったが、スーフィズムに対して一定の理解を持っていた。またアル=フィールザバーディーの大カーディー就任に伴い、それまで大カーディーを勤めていたイブン・アル=カヤット(ibn al-Khayyat, 1408没)が更迭されており、これは親スーフィー派であったスルタンによる、スーフィーウラマーの対立への政治的介入だったと考えられる。アル=フィールザバーディーは偉大な学者でもあったが、政治的野心も旺盛な人物だったようで、彼がスルタンに取り入ろうとしてイブン・アラビー派に有利な裁定を下したのではないかとも疑われている。


このファトワーに対して、反対派のウラマーたちは猛然と反発した。中でも前の大カーディー、イブン・アル=カヤットと、彼を支持する各地のカーディーやウラマーたちはアル=フィールザバーディーに反論するファトワーを発行したり、韻文(詩)を発表したりして反論を繰り広げた。さらにイブン・アラビー派のウラマースーフィーたちが再反論し、最終的にイエメン中の学識者らが擁護派、反対派、中立派に分かれて対立をつづけたのである。


スーフィーたちの勝利

1400年にスルタン、アル=アシュラフ・イスマーイールI世が崩御し、その息子アッ=ナースィル・アフマド(1400-24年在位)が8代スルタンの座についた。後にアデンの商人たちを弾圧して、わずか数年でアデンを崩壊させ、「暴君」と呼ばれたスルタンである。彼は先代と同様、あるいはそれ以上にスーフィズムに傾倒した君主であった。


アル=ジャバルティーには多くの弟子がいたが、中でも特筆すべき人物が、アブドゥル=カリーム・アル=ジーリー(1429没)と、イブン・アル=ラッダード (1346/8-1418) の二人だ。アル=ジーリーは、ザビードの学校でのアル=ジャバルティーと共にイブン・アラビーの思想を広めた。一方、イブン・アル=ラッダードはアル=ジャバルティーが認めた後継者であり、スーフィーでありながら、後にアル=フィールザバーディーの後がまとして「大カーディー」の座にまで上り詰めた人物だ。


彼はマッカの名家に生まれ、幼少の頃から優れた教育を受け、将来を約束されていた。1365年頃に彼は初めてザビードを訪れており、そこでアル=ジャバルティーと出会ったことで彼の運命は大きく変わった。アル=ジャバルティーのカリスマ性に深く感銘を受けた彼は、俗世の生活を全て捨ててスーフィーに転向した。謙虚さと信心深さを身につけるために、アル=ジャバルティーの薦めによりマッカ時代の友人すべてと縁を切り、禁欲的な苦行に励んだ彼は、自らのエゴを切り捨てるスーフィーの修行の階梯を達成した。その後、アル=ジャバルティーの導きのもとで神秘哲学を学びだした彼はさらに一層修行に打ち込み、弟子達の中でも驚くべき早さの成長を見せた。あるときなどは修行に没頭して妻子に食べ物やカネも届けずほったらかしにしていたため、食うや食わずの餓死寸前になっていたところを、あやうく気付いたアル=ジャバルティーが施しを与えて救ったとも伝えられる。アル=ジャバルティーは彼を認め、カーディリー教団で使われていたスーフィーの衣を彼に授けて、自らの後継者とした。


以降、アル=ジャバルティーの行くところには、いつもイブン・アル=ラッダードが付き従った。アル=ジャバルティーがスルタンに庇護されるようになると、彼も一緒に宮廷に赴き、そこでスルタンやその親族たち、そしてアル=フィールザバーディーとの面識を得た。やがてスルタン、アル=アシュラフ・イスマーイールI世、アル=ジャバルティーが亡くなると、イブン・アル=ラッダードは自分の娘をスルタン、アッ=ナースィル・アフマドの妻として嫁がせて宮廷での確たる地位を築いた。さらに1415年にアル=フィールザバーディーが亡くなると、「娘婿」に当たるスルタンの専横によって、大カーディーに就任したのである。


イブン・アラビーの擁護派と反対派の論争は、アル=ジャバルティーやイブン・アル=カヤットが亡くなった後も未だに続いていた。この頃、擁護派の旗頭になっていたのがイブン・アル=ラッダードであり、反対派の中心はイブン・アル=ムクリという有名なウラマーであった。イブン・アル=ラッダードの大カーディー就任は、論争の正否はさておき、政治権力の面から「スーフィーたちの勝利」に決着づけるものとなったのである。

そしてイブン・アル=ラッダードは、大カーディーに就任するや、論敵たちに容赦ない弾圧を加えた。ウラマーたちのもとに私兵がやってきて身柄を拘束し、ある者は投獄され、ある者は逃げ出し、中には命を落とす者もいたという。


スーフィーたちの没落

反対派の中心だったイブン・アル=ムクリはこのときの弾圧の手を逃れてザビードから逃げ出していたが、後にスルタンから再び戻ってくるように告げられ、ねぎらいの言葉を受けている…実はこのとき、高名な学者だったイブン・アル=ムクリにはザイド派イマームからも声がかかっており、それを聞きつけた暴君が慌てて呼び戻したのが真相だったのだが、このことが反イブン・アラビー派に再起の望みをつなぐことになった。

1424年に「暴君」アッ=ナースィル・アフマドが崩御すると、その後継者を巡って親族同士でのいさかいが生じる。その筆頭に立ち9代スルタンの座についたのは、アル=マンスール・アブドゥッラー(1424-1427在位)であった。彼は自分の政敵らに対抗するため、弾圧されていた反イブン・アラビー派のウラマーたちを厚く庇護した。アル=ジャバルティーのような強烈なカリスマ指導者も、アル=フィールザバーティーのような高名な学者も、またイブン・アル=ラッダードのようなスルタンとの親類もすでに世を去り、その後ろ盾をすっかり失っていたイブン・アラビー派は、立場が逆転して報復の対象となり、今度は逆に弾圧されることになった。


1427年、9代スルタンが亡くなると年若い10代の王子がその後継者として10代スルタンとなり、アル=アシュラフ・イスマーイールII世を名乗った……アル=ジャバルティーを最初に庇護した7代スルタンと同じ名である。その名の示す通り、彼は今度はイブン・アラビー派側のスルタンであった。このとき、イブン・アラビー派の中心だったのはアル=キルマニーという人物であり、再びザビードで活動することを新スルタンから許された。この頃はまだ、スルタンの親族や軍関係者などに、イブン・アラビー側の人間が残っていたことが伺える。


ところが翌1428年、年若いスルタンからの給与の少なさに腹を立てた傭兵たちがクーデターを起こし、スルタンを捕えて投獄してしまう。その後を受けて11代スルタン、アル=ザーヒル・ヤヒャ(1428-38在位)が後を継ぐと、アル=キルマニーは再び追放された。その後アル=キルマニーは、周辺の部族やスルタンの兄弟を巻き込んで反逆を企てるが失敗し、彼が逃亡先のジーザーンで1437年に亡くなると、イブン・アラビー派は完全に権力の座から失墜した。

イブン・アラビーの教え自体はその後もアル=ジーリーやその後継者によって、ザビードの学校で教えられてはいたようだ。しかしアル=ジャバルティーの息子が1470年に亡くなったときにそれも途絶え、彼らの思想を受け継ぐスーフィーの一派はザビードから姿を消していったという。

*1:彼らに関する史料は少なく、15世紀の法学者、イブン・アル=アフダル(アル=フサイン・イブン・アブドゥッラーマン・イブン・アル=アフダル、1481没)によるものがあるものの、明らかに反イブン・アラビー側からの視点に偏った内容である。そもそもラスール朝の時代には、多彩な学術が発展したものの、彼らザビードの学者自身に関する史料は少なく、彼らと敵対していたザイド派による、明らかに偏りのある史料が多い

*2ザイド派が何故撤退したのかは不明である。また、この出来事がいつのことかも、1381-91年の間であることは間違いないが、具体的にはわからない。しかしザイド派イマーム、サラールッディーンは1391年に、ラバに乗っているときに放り出されてそのまま引きずられ、その傷が元で急死したと伝えられており、その死は二ヶ月の間、秘密にされていたという。このことから考えて、1391年のイマームの急死がザイド派の撤退理由であったかもしれない。

*3:当時のイスラーム社会においては、学者たちは独自の組織体制を持ち、スルタンの権力からある程度独立していた。ラスール朝の司法組織において、スルタンはイエメン全体の裁判官(カーディー)たちの長となる「大カーディー」を任命するが、各地のカーディーの任命権限は大カーディーにあった。このため、大カーディーを頂点とした法学者たちの組織が形成された。なおラスール朝の初期には、大カーディーの代わりに、イムラーン家やムハンマド・イブン・ウマル家など、有力なウラマーを多く輩出した地元の名家がカーディーを任命していたが、5代スルタン・ムジャーヒドの頃に、ウラマーたちによる体制が整えられたという(栗本保之「イエメン・ラスール朝ウラマー名家」オリエント42-1 (1999) 67-83)。また、学者同士の派閥争いに関しても、スルタンは調停役となることはあってもどちらか片方に肩入れすることは少なかった。ただし、この項で扱うスーフィズムの台頭に関してはその例外の典型である。

*4http://www2.dokidoki.ne.jp/islam/quran/quran036-1.htmhttp://www2.dokidoki.ne.jp/islam/quran/quran036-2.htm