アル=ジャバルティーはコーヒーを飲んだか?

歴史の話が長くなったが、ポイントをまとめると以下のようになる

  1. イエメンでのスーフィズムのはじまりは13世紀頃。郊外型の、聖者を中心とする小教団によるものが主体。
  2. 14世紀末にザビードでアル=ジャバルティーが現れ、民衆、スルタン、一部の学者らの間で熱狂的にスーフィズムが広まる(イブン・アラビー派の台頭)
  3. 1395-1424の間、イブン・アラビー派のスーフィーが学界(政界)を牛耳り、伝統的スンニ派ウラマーが弾圧される
  4. 1425以降、イブン・アラビー派が失墜し、伝統的スンニ派が再び返り咲く。

さて、そもそもの疑問に立ち返ろう。我々の最大の関心はコーヒーである。14世紀末から15世紀最初の四半世紀にかけて、ザビードを中心にスーフィズムの一大ブームが巻き起こった。ならば、このときザビードスーフィーたちが、コーヒー/カフワを利用した可能性があるのかどうか。もしくは、アル=ジャバルティーがコーヒーを知っていたか、あるいは利用していたかどうかである。


アル=ジャバルティーについては生年もよくわからず、若い頃の経歴がよくわからない。彼の弟子であるイブン・アル=ラッダードが1346/8年の生まれで、ザビードに初めて来たのが1365年ということなので、早めに見積もればこの頃には既にスーフィーの師(マスター)になっていたかもしれない。没年が1403年ということと、1380-90年頃に聖者として扱われたことなどと合わせて考えると、1310-20年頃に生まれたというあたりだろうか?

彼がどのようにしてスーフィーになり、その聖者の一人になったかについてもわからない。ただ彼がイブン・アル=ラッダードに後継者の証として、カーディリー教団*1スーフィーの衣を授けたということから、カーディリー教団の系譜を組んでいた可能性は考えられる。またイエメンにイブン・アラビーの思想が伝わった当初には、上述したようにリファーイー教団のスーフィーたちが関与しており、この教団から思想的な影響を受けたことも考えられる。


アル=ジャバルティーとエチオピア

アル=ジャバルティーの生い立ちを考える上で、もっとも興味深い手掛かりは、その「アル=ジャバルティー al-Djabarti」という名前そのものだ。これは出身地を示すニスバである。"Djabarta"という地名は、ド・サッシーが仏訳した、アブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』にも見いだす事ができる。

Je dis dans le Yémen seulement, et non ailleurs, parce que nous ignorons comment et à quelle occasion on a commencé à prendre du café dans le pays d'Ebn-Saad-eddin, dans l'Abyssinie, le Djabarta, et autres lieux de la terre d'Adjam (34). (de Sacy, Chrestomathie arabe p.419)


拙訳:私は(コーヒーのはじまりについての話を)「イエメンに限った話として、他の場所ではなく」として述べたが、なぜならサーダッディーンの息子の国(=アダル・スルタン国)やアビシニア、ジャバルタ、そしてそれ以外のバール・アル・アジャムの地域で、コーヒーがどういう経緯で、どのように飲まれるようになったかを知らないからだ (34)。


さらにド・サッシーは脚注で、この「ジャバルタ」を以下のように説明している。

Le Djabarta ou Djibert est le même pays qui est aussi nommé Aufat ou Wajat par les écrivains arabes, et Ifât par les Abyssins et les auteurs européen. Suivant Makrizi, le nom de Djabart est commun à tout le pays de Zeïla, et comprend sept royaumes, au nombre desquels est celui d'Aufât. (ibid p.455)


拙訳:ジャバルタまたはジベルトは、アラビア人の作家が「アウファト」または「ワジャト」、ヨーロッパの著者が「イファト」と呼ぶ国と同じである。マクリジによれば、ジャバルトはゼイラの全体と共通しており、それを含んだ7つの王国がアウファトであった。


この「ジャバルタ」「ジベルト」という地名は、現在の「ジブチ」の国名の由来でもある。14世紀-15世紀初頭には、ゼイラの近辺はイファト・スルタン国支配下にあった。この中でも沿岸部のゼイラ周辺の一帯が「ジャバルタ」であり、アル=ジャバルティーはもともとこの地域の出身であったと考えられる。


イファト・スルタン国は13世紀前半、マッカからゼイラに渡った、ウマル・ワラシュマが興した国であり、1285年にはエチオピア西南部のショア・スルタン国を滅ぼして、ゼイラからイファトにまで広がる、広大なスルタン国を成立させた。しかし、キリスト教エチオピア王国のアムダ・セヨンとの戦いに破れ、1328/32年にその属国となった。その後、何度かの反乱を起こしたが、サーダッディーンII世は1403/10年に、逃亡先のゼイラで殺されている。

イファト侵攻の少し前、1316年にアムダ・セヨンはダモトやハドヤなど西南部の部族を攻め滅ぼし、その残党がイファトに逃れている。さらにイファト侵攻後には、イファトから紅海沿岸部のゼイラに向かって、西南部の人々が逃れて行った可能性がある。この経緯については以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130213)にも述べた。


したがって、もしアル=ジャバルティーが1310-20年頃にジャバルタで生まれ育っていたならば、その人生の最初の時期に、こうした西南部から逃れてきた人々と接触していた可能性は十分に考えられる……だとすれば、アル=ジャバルティーがザビードスーフィズムを大流行させると同時に、夜通しの祈祷(ズィクル)のために、カートから作るカフワや、コーヒーの実で作るカフワを用いており、それがはじまりのきっかけになった…これは魅力的な仮説だ。

しかし残念ながら、この当時の史料にアル=ジャバルティーら、イブン・アラビー派のスーフィーがコーヒーを使っていたかどうかに関する具体的な記録は見られないようである。これだけ大きなスーフィズムの流行があったにも関わらず、コーヒー利用の記録がないということは、裏を返せば、むしろこの時代のザビードでは利用が広まっていなかった…すなわち、彼らはコーヒーを使っていなかったと考えるべきかもしれない。コーヒー/カフワのはじまりに関する伝説では、ウサブ山やモカなど、ザビードからそう遠くはないにせよ、いずれも郊外で始まったことが暗示されていることとも合致する。


とはいえ、後にイブン・アラビー派が弾圧されたときに、そうしたザビードでのコーヒー利用の記録が抹消された可能性も否定はできない。また、ひょっとしたらイブン・アラビー派が秘密裏に使っていた可能性もあるだろう。ザビードでのスーフィズムの普及によって、多くの人がイブン・アラビーの著書やサマーを介してスーフィズムに触れた。しかし、より深くスーフィズムに触れようとして、スーフィーたちのサークルに入り、修行をした者たちの間でだけ用いられていた「秘薬」扱いだったかもしれない。

*1:カーディリー教団は12世紀のバグダードで、ハンバル派の法学者でスーフィーだった、アブドゥル=カーディル・アル=ジーラニー (1077–1166)が創始した、最古のスーフィー教団である。英語版のWikipedia http://en.wikipedia.org/wiki/Qadiriyya では、アル=ジーラニーからイブン・アラビーへの系譜が記載されているが(2013年12月現在)、Knysh "ibn `Arabi in the Later Islamic Tradition"など、他の史料ではこうした繋がりに関しての記載は見られなかった。