ザブハーニー、アジャムへ行く

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もう少し別の角度からも考えてみよう。そもそも彼は、なんで「アジャムの地」に行ったのだろうか。

イブン・アブドゥル=ガッファールが聞いたところによれば、彼は「何らかの理由でアデンを去り、『アジャムの地』に赴き、しばらくそこに滞在しなければならなくなった」とある。彼はアジャムに向かう前、すでにアデンに暮らしていた。そして、何かの理由があってアデンを去ることになったが、どんな理由が考えられるだろう。

  1. さらに学問を修めるため
  2. ウラマーとしての職を求めて
  3. イスラム教やスーフィズムの布教のため
  4. アデンにいられない理由ができた

…あるいはもっと個人的な理由など、ほかにもいろいろ考えられるだろうが、これらの主立った理由と合わせて「アジャム」へ行った経緯を推測してみよう。


ペルシア説をあれこれ考える

「本命」のド・サッシー説は後のお楽しみにとっておいて、ひとまず先にペルシア説から考えてみよう。


ザブハーニーが向かった「アジャム」がペルシアだというガランの説は、一見すると無理があるように思える。アデンから対岸に渡ることと比べて考えると、ペルシアまでの道のりは非常に遠い。そこまで行くには、何かよほど特別な理由が必要だと思われるからだ。

しかし上述したように、14世紀末のペルシアの偉大な学者、アル=フィールザバーティはイラン南部のフィールザバードから、途中エルサレムやマッカなどを経由して、最終的にはイエメンに辿り着いた。また以前触れたシャーズィリーヤ教団の開祖、アッ=シャーズィリーが学問を修めるためにイベリア半島のあたりからはるばるペルシアまで向かったことも思い出される。当時のウラマーは(1)学問を修めるため、または(2)職を求めるために、遠距離を旅することは珍しくなく、アデンからペルシアまでの移動もけして非現実的な距離とはいえない。


この当時、イエメンとペルシアの王朝の間に特別の交流があったとは思いがたい部分はある。だがラスール朝はもともと、アッバース朝ペルシアからイエメンに派遣された、トゥルクマーン(オグズ)出身の「ラスール」ことムハンマド・イブン・ハルンが興した王朝である。イエメンにとっては「余所者」である彼らが「優れたイスラム諸学の知識を持つ自分たちが民衆を指導する」という名目を立てて、イエメンを統治していたことは以前にも何度か述べた。ラスール朝のスルタンがペルシア出身のアル=フィールザバーディーを招致したことなどから考えて、当時のイエメンにおいてもペルシアは学問の進んだ国だとする認識があったのかもしれない。また、もしザブハーニー自身が、あるいはアデンでのザブハーニーの師が、アル=フィールザバーディーの教えを受けていたのならば、それも彼が (1)学問のために、ペルシアに向かう動機になりえただろう。


ただしザブハーニーの向かった「アジャム」がペルシアだとした場合、イブン・アブドゥル=ガッファールの言う「そこで人々がコーヒーを利用するのを見た」という記述には無理が生じそうだ。この時代のペルシアで人々がコーヒーを利用していたという記録はない。ガランの訳も(誤った意訳とは言え)この当時「ペルシアではコーヒーはほとんど知られてなかった」としている。あえて一つの可能性を挙げるならば、イブン・スィーナーが伝えた「薬用としてのブン/ブンクム」であろう……ただしこの頃のペルシアで、イブン・スィーナーの言う「ブン/ブンクム」が実際に用いられていたことを示す史料はないようだ。もしこの当時もペルシアでブン/ブンクムが使われていたならば、16世紀になってコーヒーがペルシアにまで広まったときに、両者を結びつけて議論する人が出てきただろうが、そのような記録もない。このことから「ブン/ブンクム」も、既にアッ=ラーズィーやイブン・スィーナーの文献に見られるのみで、ペルシアには存在していなかった可能性が高そうだ。


またこの15世紀前半は、ペルシアはかなり情勢不安定であったと思われる。ペルシアは13世紀半ばから14世紀半ばにかけて、モンゴル帝国の後継国家イルハン朝*1の統治下にあり、イルハン朝イスラムに改宗した13世紀末以降、イラン=イスラム文化が開花していた。しかし1335年にその王統が途絶えたことで解体され、ムザッファル朝、チョバン朝、ジャライル朝など複数の小さな王朝が乱立して混乱していった。そこに東から、中央アジアティムール朝*2が介入して14世紀末までにはイラン全土を掌握するに至ったが、1405年に初代君主ティムールが病死すると、イラン西部で黒羊朝や白羊朝など*3のトゥルクマーンによる王朝が勢力を伸ばした。

もしザブハーニーがペルシアに向かったとするならば、その頃はまさにティムール朝や、黒羊朝、白羊朝、ジャライル朝などが入り乱れていた時期だと考えられる…いくら優れた学問を学ぶためとは言っても、さすがに厳しい状況ではないだろか。


このようにいろいろな条件を考えてみると、この「ペルシア説」は可能性がないとは言い切れないものの、やはりかなり分が悪いように思える。


アフリカ大陸沿岸説

ド・サッシーが言うように、若いザブハーニーがアデン湾の対岸の「バール・アル=アジャム」に渡ったと仮定してみよう。この当時、アデン湾沿岸のアフリカ大陸側にはゼイラ、ベルベラ(バルバル)、マイト、マルガッワ*4、ボサソ(カシム Bandar Qasim)など、いくつかの港があり、紅海/インド洋交易のネットワークでアデンとつながっていた*5。これらの港はいずれもアデンと同様の商業・交易を中心とした都市だったと考えられる。またイエメンにおけるザビードのような、イスラムの学術・宗教都市が「バール・アル=アジャム」にあったという記録はない。したがって、この地域への渡航が(1)学問を修めることが目的だったとは考えにくい…ザビードに行く方がよほどましだったと思われる。


また、これら沿岸部の港町にはすでに多くのイスラム教徒がいただろうから、(2)布教のためというのも考えにくそうだ。これらの港から内陸部に入って、エチオピアソマリアの原住民を相手に布教するのは、ありえなくはないかもしれないが、ハトックスが指摘しているように、後年「隠匿的な」生活を送るような人物が、いくら若い頃とは言え、そこまで命がけの冒険に出ていたとは、ちょっと考えにくい。


一方(3)ウラマーとしての職を求めてというのは、もう少しありえる話かもしれない。アデンにおけるウラマーの主な役割が、商売に伴う訴訟への対応だったことを考えれば、交易がさかんであったアフリカ大陸側の港もおそらく同様の状況だったと思われる。ただしこの場合、彼がアデンを去った理由はよく判らないし、「そこにしばらく滞在」したものの、結局またアデンに戻った理由もよく判らない…ひょっとしたらこの当時も就職が厳しく、彼が独り立ちしてすぐの頃にアデンに職がなかったために、しばらく余所で「就活」していただけだったのかもしれない。


ただ、ここで一つ気になるのは、職を求めるのに何故「バール・アル=アジャム」だったのか、という部分だ。そもそもラスール朝のスルタンは代々ウラマーを庇護していた。ウラマーとしての職を求めるのも、修学と同様、ザビードの方が条件がよかったと思われる。あるいはモカやシフルなど、アラビア半島側にも港町はあっただろう。

「アデンを去り、『アジャムの地』に赴いた」という彼の動きは、単に「アデンを去った」だけではなく「ラスール朝イエメンを去った」ことを意味しているのではないか……つまり、この頃、彼には(4)アデンにいられない理由、あるいはイエメンにいられない理由があって、一時的にアデンを離れたとは考えられないだろうか。

*1:首都タブリーズ→ソルターニーイェ

*2:首都サマルカンド→ヘラート

*3:いずれもタブリーズを首都とする。

*4:所在地不明

*5:栗山保之『海と共にある歴史』中央大学出版部 2012年