「スペシャルティ」への潮流

さてここで一旦、この当時の、世界の(というよりアメリカの?)コーヒー事情を見ておこう。


1960年代の初頭に締結された、国際コーヒー協定(ICA)により、コーヒー生産国には輸出割当の上限が決められ、また協定に加盟した消費国は加盟生産国からのみ輸入することが義務づけられた。このことは、生産国の無秩序な増産に歯止めをかけてコーヒーの価格暴落を抑止すると同時に、米ソ冷戦下においてアメリカを中心とする西側諸国が加盟消費国となって、いわば「買い支え」を行うことで、生産国に経済的安定と向上をもたらすという点で、少なくとも一定の成果を上げたと言ってよいだろう。


一方アメリカでは、1960年代にコーヒー焙煎業者での価格競争が激化し、原料価格削減の動きが高まった結果、生豆の品質が低下した*1。この結果、高品質の生豆を要求する声が、一部の消費者やコーヒー業者の間で高まっていった。これが現在の「スペシャルティコーヒー」の、先駆けにあたる動きである。1974年に"The Tea and Coffee Trade Journal"誌上で、Erna Knutsen女史が"Specialty coffee"という造語を初めて用い、その端緒*2を開いた。また1980年代になると、いわゆる「アザーマイルド」と呼ばれていた中米産のウォッシュト(水洗式)コーヒーの品質が高まり、アメリカ人の嗜好がこれとマッチしたことも重なって、その人気が上昇していった。しかし、もともと中米諸国はブラジルなどの大生産国と比べてICAの輸出割当が低かったため、いくら人気が上がってもアメリカへの供給量には限りがあった。その一方で、当時の中米生産国では、割当を超える分をソ連など共産圏のICA非加盟国に輸出していたのである。すなわち、世界最大のコーヒー消費国アメリカは、ICAを通じて世界のコーヒー生産全体を下支えしていながら、その国内では流通するのは低品質なものばかりで、高品質なアザーマイルドへの需要が高まっても十分に供給されず、非加盟国に美味しいところを持っていかれるという、皮肉な状況に陥っていた。輸出割当量を変更したくとも、ブラジルやコロンビアなどの大生産国も大きな発言力を持つICOではアメリカ一国の主張を押し通すこともできず、アメリカ国内のコーヒー業者は、このことに大いに不満を抱き、ICO/ICAに対する批判も拡大していった。1982年にごく一部のコーヒー業者だけで設立された、SCAAアメリスペシャルティコーヒー協会)は次第に膨れ上がり、いまや世界中に派生して一大ムーブメントになっていることは衆知の通りだが、ここに至る「アメリカでのスペシャルティコーヒー追求の動き」は、つまるところこのようなアメリカのコーヒー事情を背景にして、現在まで繋がっている。


そして1989年、米ソの冷戦が終結したこの年*3、加盟国間での見解の相違のために、ICAの輸出割当制度が停止する事態に陥った*4。この結果、各国の生豆在庫が市場に流入したことで生じたのが、1990年の、いわゆる「第一次コーヒー危機」である。


この結果、生産国では、これまでのような形でICO/ICAが頼りにできない状況に陥り、消費国の(というより、最大消費国アメリカの)ニーズに合った「高品質による差別化」の動きが本格化する。いち早く対応したのは最大生産国ブラジルで、1991年、生産国側としては初めて、スペシャルティコーヒー団体である、ブラジルスペシャルティコーヒー協会を設立している。次いでコスタリカが1993年に同様の協会を設立。そしてパナマで、1996年にパナマスペシャルティコーヒー協会が設立された。


一方ICOでもまた「高品質化」への取り組みとして、1997年から2000年にかけて「グルメコーヒープロジェクト」("Development of Gourmet Coffee Potential"/グルメコーヒー可能性の開発)を実施した。直接実施に当たったのは、国連と世界貿易機関の共同組織である国際貿易センター(ITC)で、ICOがITCに業務委託し、世界銀行による資金援助のもと、5つの生産国(ブラジル、パプア・ニューギニアエチオピアウガンダ、ブルンディ)を選出し、高品質コーヒーの開発と生産支援を行うことを目的としたプロジェクトであった。1999年にはこのプロジェクトの成果として、ブラジルでカッピングコンテスト「カップ・オブ・エクセレンス」が開催された(参考URL)。このコンテストは、実質的にアメリカのSCAA主導のコンテスト*5になり、(半ば当然のことながら)アメリカのコーヒー関係者に好評となった。さらに続けてコンテストに出品された生豆のオークションが行われ、出品されたものはいずれも通常の2-4倍以上という高値で落札される結果になったのである。この成功は世界中の生産国の関心を集め、他の生産国にもカップ・オブ・エクセレンスや、これに類するカッピングコンテスト&オークションのシステムが広がっていった。なお、グルメコーヒープロジェクトは2000年に終了したが、2002年に非営利組織"The Alliance for Coffee Excellence" (ACE)が設立され、「カップ・オブ・エクセレンス」の活動を引き継いでいる。

*1:また同時に、焙煎に伴うコーヒー豆の重量減(シュリンケージ・水分や揮発性成分が失われることによる)による損失を嫌った結果が、いわゆる「アメリカンロースト」の浅煎り指向につながったと言われる。

*2:さらに1978年にフランスで行われた国際コーヒー会議で、Knutsen女史がこの語を用いて発表したことで広まった。

*3:ICAが生産国の経済安定をもたらすことには、その共産主義国化を防ぐ意味合いもあったが、冷戦が終結したことでその必要性が薄れた。

*4:厳密には、輸出割当制度の停止はこれが初めてではない。ICAは1963年から原則5年ごと、すなわち1963, 1968, 1976(本来は1973の予定が2年延長), 1983に、それぞれ第1~第4次協定が締結されたが、1970年のブラジル大霜害を契機とする価格高騰のため、1973年には一旦、輸出割当条項を除外した形で2年延長され、1976年の第3次協定では、価格高騰時には輸出割当が停止される(=元々が価格暴落の防止のための輸出割当なので、高騰時には自由に売買できる方が生産国は儲かる)という弾力的な方法が採用された。

*5:グルメコーヒープロジェクトの当初、ブラジルはコーヒー鑑定士(クラシフィカドール)による伝統的な欠点評価式のカッピングを行うことを強硬に主張し、1998年に「グルメコーヒー」として提供したものの、アメリカのカッパーの多くはその品質に満足せず、それを拒絶した。このため1999年にはブラジルの鑑定士を排除した上で、ブラインドテスト方式で特長や長所を評価するSCAA方式のカッピングが行われた。