「マンデリン」の変遷

コーヒーの一大ブランドである「マンデリン」は、1841年に南タパヌリで強制栽培制度が導入されたときに生まれたものだと考えられている。これらのマンダイリン、アンコーラ・バタック族の土地では、後にミナンカバウ地方で行われた強制搬入制度よりも、むしろジャワ島での強制栽培制度に近いことが行われていたようである*1。これらの土地では、オランダ東インド政庁主導のプランテーションが発達していたらしい。このことは、後に'All about coffee'に、"formerly Gorverment coffee."と記載されていることからも推測される。


オランダは、マンダイリンやアンコーラでは、現地住民に強制的にコーヒーを栽培させて安く買い取り、ミナンカバウでは現地住民が自分たちの土地で栽培したコーヒーを強制的に搬入させて安く買い取るという、どちらにしても現地住民からの搾取によって利益を上げた。このシステムはそれぞれ1908年まで継続する。

ただし、この制度が終わる少し前の、19世紀末頃にはミナンカバウでは住民の階層化が進んだ結果、コーヒー栽培以外の職業に従事するものが徐々に増え、その結果としてコーヒー収穫量は減少しており、十分な利益を上げることが出来なくなっていたという。その結果、ミナンカバウでのコーヒー栽培は徐々に衰退していった。'All about coffee'の記載でも、1922年に見られた南寄りの港の名前が、1935年には見られなくなっているのには、このことが影響していると考えられる。


これに対して、北寄りのマンダイリンやアンコーラでは政庁主導の栽培であったため、一定の収穫量が維持されていった。北スマトラさび病が上陸したのはジャワ島より遅く、1908年頃であったことも幸いしたのだろう。ジャワ島でさび病対策として広まったロブスタは、1912年、ニューヨーク取引所で「価値がない」と評価され、取引停止に至った。その後もマンダイリンとアンコーラでは、「伝統ある高品質なアラビカ」の生産が続けられた*2

そして、少なくとも1920~30年代のアメリカで

"The best coffee in the world"; also the highest priced.

と評価されるに至っていたのである。


これに前後して、コーヒー生産地の北への拡大も始まった。バタック戦争でオランダに屈したトバ・バタック族が、本格的にトバ湖周辺でのコーヒー栽培を始め、さらに一部は北方への移民になり、中央アチェにまでその栽培を広めていったのである。少なくとも1935年頃には、「マンデリン」「アンコーラ」に次ぐ新興の産地として「トバ」の名が挙げられている。

ただし、一般の取引レベルで、これらの区分は必ずしも明確ではなかった。ネームバリューに劣る新興産地のコーヒーが「マンデリン」という名で積出されていただろうことは、想像に難くはない。また、これら北寄りの産地ではミナンカバウにあるパダンよりも、東海岸のメダン(ベラワン)の方が積出に便利であった。ミナンカバウでのコーヒー栽培の減少にこのことも加わって、パダンはかつての繁栄を失っていく。それに伴い、主にパダンから積み出されていた「マンデリン」も、別の港から輸出されるようになる。


'All about coffee'第二版の出版から7年後の1942年、太平洋戦争で日本軍がインドネシアに侵攻する。これによってオランダによる植民地支配が崩壊した。しかし同時に、日本と敵対するアメリカやヨーロッパ諸国へのコーヒーの販路も閉ざされた。およそ5年間に亘り、インドネシアからのコーヒー輸出は実質的にストップしてしまう。また、インドネシアのコーヒー農園の多くは、オランダ東インド保有する国有地を借地して経営する、という位置付けであったために、その土地所有の基盤が失われたことで、農地を巡る混乱も生じた。また、1965年9月30日に起きたクーデター未遂事件(9月30日事件)がきっかけになって起きた共産党員掃討のときには「プランテーションの内部に共産党内通者がいる」と密告されて、多くの農園関係者が虐殺される事態も生じたと言われる。


マンデリンの復活

このような激変する社会情勢によって、マンダイリン、アンコーラ地区にあった、かつての政府農園の多くが衰退していき、かつての「マンデリン」は姿を消したかに思われた……だが、それを細々と受け継いでいた者たちがいた。それがトバ湖周辺に暮らすトバ・バタック族である。

戦闘の激しかった沿岸部に比べて、トバ・バタック族の暮らす内陸の高地は比較的、戦禍の少ない方だったかもしれない。またトバ・バタック族では「ゴラット」と呼ばれる父系相続の慣習があったことから、所有者が明確な土地も多かった。現地では比較的小規模なコーヒーの個人農園で栽培されていただけでなく、他の木の陰(シェード)にコーヒーノキが植えられ、ほとんど原生林と見分けがつかない状態であったため、農園の略奪による被害もまだましな方だったろうと思われる。


またトバ湖周辺の高地であることや、シェードツリーの利用、そして小規模で分散された栽培のおかげで、偶然ながら、さび病が一斉に蔓延する事態も避けられたと考えられる。一部の、離れたところに点在した「農園」には、戦前から栽培された古いコーヒーノキやその子孫が残っていたのである。これらは恐らく、かつて高い評価を受けたマンデリンの子孫であり、現在、「クラシック・スマトラ」と呼ばれて、トバ湖周辺を中心に北スマトラの伝統品種として栽培されている。


その後、北スマトラのコーヒー栽培はさらに北上する。とりわけ、1978年から中央アチェの開発支援国際プロジェクトが始まったことの影響は大きかったと言えるだろう。このプロジェクトによって、中央アチェのガヨ地区、特にタワール湖の周辺に位置するタケンゴン地区などでのコーヒー生産が飛躍的に伸びた。同時にティムティムやアテンなどの品種も持ち込まれ、栽培される品種に変化が現れたのも、これ以降だと言えるだろう。この地で生産されたコーヒーも、当初は「同じ北スマトラのコーヒー」として、マンデリン名義で取引されることが多かった。ただし、これら北部のコーヒーについては「ガヨマウンテン」など、「ガヨ族が作った」新しい別銘柄として、販売する流れも生じている。


一方、トバ湖周辺のリントン地区などでは、同じバタック族というつながりもあることからか、比較的「マンデリン」を前面に押し出すことも多い。日本でも、1995年にUCCがリントンマンデリンコーヒー農園を、現地企業との合弁で開園していることは、ご存知の方も多いだろう。


「マンデリン」という名称

「マンデリンはまずくなった」という言葉は、いまや「長老」クラスとも言える、古くからのコーヒー関係者や愛好家からしばしば囁かれる言葉である。歴史的な経緯を踏まえて考えると、ユーカースの時代に、"The best coffee in the world"と評されていた「マンデリン」は絶えてしまってるのかもしれない、という結論にならざるを得ない。


「栽培品種」という観点から言えば、当時と同じ「クラシック・スマトラ」が残ってはいた。しかし、コーヒー生豆の品質を決定するのは品種だけではない。俗に「テロワール」と呼ばれるような、栽培される場所の気候風土の違いや、栽培方法、精製方法の違いなど、多くの要素が合わさって初めて「生豆の品質」が決定される。本来のマンダイリン地区と、元々稲作に適していたトバ地区では、恐らく気候の違いはそれなりに大きいだろう。ならば、その生豆の違いも当然それなりにあったはずだ。


現在、トバ湖周辺で栽培されているものは、名前の由来を「杓子定規に」捉えるなら、本来なら「マンデリン」ではなく、All About Coffeeに書かれていた「トバ」と呼ばれる方が妥当かもしれない。もしかしたら、中には「本来のマンデリンでないものをマンデリンと言って売るのは詐欺だ!」とか考える者もいるかもしれないが、このケースでは、個人的にはそうとまでは思ってない。

多少、違和感を感じる部分があるのも確かだが、少なくとも「マンデリンの正統後継者」としては、おそらくトバ地方のコーヒーをおいて他には存在しないだろう。かつてアチェ王国が「ムラカ王国の正統な後継」を自認したように。ガヨ地方のコーヒーも、「マンデリンの流れをくむもの」と言うことは可能だろうと思う(バタック族とは異なる民族が中心ではあるだろうが)。


もし、このことを以て「詐欺だ」というならば、責められるべきは一体誰なのか……現地の生産者なのか、消費国側の取引業者なのか、それともブランドイメージに振り回される消費者なのか……。

そう考えると、コーヒーの銘柄名を巡る問題はなかなか厄介だ。同じ産地で同じように作ったものでも、有名なブランド名がかぶさっただけで、高く取引されるようになる。「マンデリン」ほどのビッグネームであればなおさらだ。しかしその一方で、安易なブランド名だけが注目され、質の低いものまで同じ名前で出回るようになると、ブランドに対する評価自体が失墜しかねない。

スマトラでは「マンデリン」という存在が大きすぎる故に、現地の生産者も消費国側の取引業者も、ある種の「呪縛」から逃れられていないようにも見える。「マンデリン○○」「○○マンデリン」などの、よく判らないイメージ先行の銘柄名だけが普及し、産地名や農園名、品種などの情報が一切抜けたものが多く出回るのも、ある意味では、その現れなのかもしれない……なにせ「マンデリン」という名前自体が、今や産地とは無関係なのだから。


ただ、そう理解はしながらも……単なる「懐古趣味」と言われるだろうが、もし今、そのマンダイリン地区で、当時と同じクラシック・スマトラを栽培し、当時に近いだろうスマトラ式の精製法で栽培したら、ユーカースが飲んだ「マンデリン」の味が再現できるのだろうか……そう想像しただけで、実に興味がそそられる話ではないか。

*1:より早期に制度が導入されたことと、おそらくはパドリ戦争以降の混乱やそもそもの土地相続慣習の違いによって、地権者が明確ではなかったことが原因だと思われる。

*2:ただし、マンダイリン地区では、1938年にロブスタも生産されていたという記録が残っている。