北スマトラとコーヒーの歴史

スマトラ島北部のコーヒー栽培は、このミナンカバウから始まり、マンダイリン、アンコーラ、トバ地区へと徐々に北上し、最終的にはアチェ州中部のガヨ地区にまで広まった。これらの地域を理解するため、ここで少し、東南アジアの歴史に照らしながら紐解いておきたい。


f:id:coffee_tambe:20100809124730p:image

  • (1696年 ジャワでの本格的なコーヒー栽培開始)
  • 18世紀初頭 スマトラ西部のナタールにコーヒーが伝わる
  • 1780年 第四次英蘭戦争によりオランダの海上輸送が困難に
  • 1790年 パダンからアメリカに向けて初めてのコーヒー輸出
  • 1800年頃 ミナンカバウ高地でコーヒー栽培が盛んになる
  • 1821年 パドリ戦争(~1838年
  • 1841年 マンダイリン、アンコーラ地区でコーヒー栽培が始まる(強制栽培制度導入)
  • 1847年 ミナンカバウでコーヒーの強制搬入制度が始まる
  • 1873年 アチェ戦争(~1904年、1912年に完全制圧)
  • 1878年 バタック戦争(~1907年)
  • 1903年 シアーズ特売品リストに「Java-Mandailing」の記載)
  • 1915年頃 アチェ南部のアラス地区の開墾地でコーヒー栽培が広まる
  • (1922年 ユーカース『オールアバウトコーヒー』初版)
  • (この間にトバ地区でのコーヒー栽培が本格化?)
  • (1935年 ユーカース『オールアバウトコーヒー』第二版刊行)
  • 1942年 日本軍がスマトラを占領(~1945年頃までコーヒー輸出が途絶える)
  • 1949年 インドネシア独立
  • 1970年頃 トバ地区にラスナ(ジェンベル、Sライン)が導入される
  • 1978年 アチェ開発支援が始まり、ティムティムとカチモール(アテン)が導入される
  • 1990年代 トバ地区にアテンが導入される

港市国家の時代

東南アジアは、5世紀頃から海上交易によって栄えはじめた。西方のイスラム諸国と、東方の中国との交易を結ぶ地点であったと同時に、東南アジア自体が香辛料や金の産出地でもあったためだ。これらの交易を行う場として、東南アジアでは海に面した港湾部が発展し、「港市国家」と呼ばれる国家が成立していった。これらの港市国家には、多くの国の人が自由に立ち寄ることが可能であったが、同時に現地の海上民や、内陸に暮らす原住民との関係も良好に保たれていたという。


パサイは、スマトラ島北部で最初に発展したイスラム系の港市国家である。当初、パサイは「サムドラ」と呼ばれていたが、後にこの都市を指すサムドラが島全体を指す言葉となり、都市の名が「パサイ」と呼ばれるようになった。スマトラという島の名前は、この「サムドラ」が転訛したものだという説がある。


パサイはイスラム国家でありながら同時に、後背のスマトラ島内陸部の諸部族たちとも友好関係を築いていた。内陸部で採れる安息香や竜脳などの香木や金*1、また15世紀後半までには南インドから持ち込まれたコショウも内陸部で栽培され、パサイで取引されていた。

これらの資源は「恐ろしい人食い人種の土地」のものであり、欲に目がくらんで自ら内陸に向かった者達は生きて帰ることはなかったのだろう。パサイを初めとする港市国家は、内陸部の国家の正統性を認め、自らの国を「彼らの親類縁者だ」と主張することで、友好関係を築いたのである。


その後、東南アジア交易の中心はマレー半島側のムラカ(マラッカ)王国に移行する。パサイよりムラカの方が、年中を通して船の停泊が容易で、港として理想的であったことが、その一因である。ムラカもまた、スマトラ南部にあった言われるシュリヴィジャヤ王国の系譜に連なる国家であることを主張して、スマトラ島の諸民族との関係を良好に保っていた。ムラカ王国もパサイ同様イスラム教国家であり、東南アジアにおける交易だけでなくイスラムの中心地として大きく発展を遂げた。

しかし1511年、ポルトガルがムラカに目をつけて攻め滅ぼし、この地を占領してしまった。さらにポルトガルは、ムラカを単に東南アジアの活動拠点にしただけでなく、香辛料を中心とした東南アジアの交易全体を管理し牛耳ろうと考えた。


この動きへの反発から、交易商たちは活動拠点をスマトラ島北部のアチェ王国に移すようになった*2イスラム人交易商たちは特に、カソリック国であるポルトガルを嫌って、アチェでの交易を中心にした。

インドネシアの西端に位置するアチェ王国は、同時に西方のイスラム諸国への玄関口にもなった。アラビア語の書物の多くが、ここでマレー語などに翻訳され「イスラムのベランダ」とも呼ばれた。アチェ王国民は、自らを、ポルトガルによって滅ぼされたムラカの正統なイスラムの後継者である、と自負していたとも言う。

またパサイより西側に位置していたアチェからは、スマトラ島西岸を廻ってジャワ島に至る「西回り」の航路が開拓された。ムラカを掌握したポルトガルが、マラッカ海峡を通行する船舶全てにちょっかいを出そうとしたため、従来の航路を避けて、西回りの航路を通る船が増えていったのである。


この西回り航路の開拓に伴い、アチェスマトラ島西岸の港市まで支配するようになった。トバ湖周辺の稲作地帯を後背地とするバルス、後にスマトラ島で初めてコーヒーが渡ったと言われるナタール、「マンデリンコーヒー」の主な積出港になったパダンやシボルガなど、スマトラ西部の港町の多くが16世紀前半には、アチェ王国の支配下になっていた。これら沿岸部の港市ではイスラム教が徐々に浸透していったが、アチェ王国は内陸部にまでイスラム信仰を強制することはしなかった。パサイと同様にアチェもまた、内陸部にある王国の正統性を重んじながら、友好関係を保つという方針を依然続けることで、香料や金の交易でも利益をあげていったのである。


このアチェの繁栄は、1607年に即位したイスカンダル・ムダの治世に最盛期を迎える。イスカンダル・ムダはインドネシアの各地に遠征し、スマトラ島沿岸部の諸都市を制圧し、イスラム教を布教した。しかし1629年、宿敵であるポルトガル領ムラカへの遠征に失敗して海軍を失うと、その勢力は徐々に衰退していった。


オランダの進出とコーヒーの導入

沿岸部へのアチェ王国の影響が低下するのと入れ替わりに勢力を伸ばしたのがオランダ東インド会社(VOC)である。1619年にバタヴィアに拠点を置いたVOCは、そこを足がかりとして、インドネシア港湾都市の多くにオランダ商館を設置した。時には直接的に強大な武力をちらつかせ、時には現地政権の内紛時に力を貸す代償として、徐々にインドネシア各地で影響力を増していったのである。スマトラ西岸地方もその例外ではなかった。


このような時代背景の中、スマトラ島に初めてコーヒーが持ち込まれた。その正確な時期については明らかではないが、18世紀初頭にスマトラ島西岸のナタールに移入されたのが最初だと言われている。ジャワ島で本格的な栽培が始まったのが1696年以降であるから、それからさほど時間を置かずにスマトラ西部から北部にかけての栽培が始まったと考えていいだろう。その後、コーヒー栽培はスマトラ島の「背骨」とも呼ばれる、ブキット・バリサン山脈に沿って広がっていったと考えられている。


スマトラ西部から北部での栽培が、具体的にいつ、どのように広まっていったのかについては、はっきりとはわからない。ただし、最初にコーヒー栽培に力を入れたのはスマトラ西部の内陸部に暮らすミナンカバウ人であったと言われる。ミナンカバウ人はマンダイリン・バタック族の暮らす地域よりも南方の「ミナンカバウ」と呼ばれる地域に暮らす民族である。


ミナンカバウ人もスマトラ内陸部の民族であり、古くから金や森林資源を産出した地域である。ミナンカバウからはスマトラ島の東西に多くの川が流れていたため、港市が繁栄するかどうかの運命は、ミナンカバウ人がその資源をどこに運ぶかによって左右された。このためパサイやアチェからも一目置かれる存在であった。ミナンカバウには14世紀頃にパガルユンという王国が存在し、独自の建国神話*3を有していた。パサイやアチェなどの港市国家には、ミナンカバウの正統性を認めた上で、自分たちもまたその末裔であるということを述べた「建国神話」が残されている。そうすることで、内陸部の権威とのつながりを保ち、良好な関係を築こうとしたのだろうと考えられている*4


初期のコーヒー栽培は、ミナンカバウ建国の聖地でもあった、マラピ山(ムラピ山)の麓から始まったと言われている。ミナンカバウ人は商才に優れた民族だと言われ、古くから自分たちの主食と同時に商業作物の栽培も行っていた。このため、外来の商業作物であるコーヒーを栽培し、近くの港で売ることにも慣れていたのだろう。義務供出制度が早期に始められたジャワ島とは異なり、スマトラ西部ではVOCによる監視が甘く、自由販売が可能な部分も多かったらしい。


特に18世紀後半になると、この流れに拍車がかかる。1780年から1784年にかけて、オランダとイギリスの間で第四次英蘭戦争が勃発した。この戦争によって、東インドとオランダ本国の間での輸送が途絶えてしまう。このためスマトラで作られたコーヒー豆も行き場を失ってしまったのだ。当時、スマトラ西部のコーヒーの多くはパダンから輸出されていたのだが、この頃、パダンにあったオランダ商館の責任者は、オランダ人にしては珍しく融通のきく人物だったそうで、どうせオランダに送れないのならと、他国の商人との間で自由に販売することを容認したのだという。

このとき、食指を動かしたのがアメリカである。1790年に初めて、パダンからアメリカに向けてコーヒーが輸出されると、間もなく一大マーケットが確立された。この「自由貿易」…とまでは言えないにせよ「かなり自由」な貿易が、ミナンカバウ周辺でのコーヒー栽培を大いに活気づけたと考えられる。1800年頃には、ミナンカバウの標高700~1000m 地帯のほとんどすべてで、コーヒーが栽培されていたという記録が残されている。


パドリ戦争の影響

ミナンカバウ内陸部のパガルユン王国を支えていたのは、山地で採掘される金の存在であった。しかし、コーヒー栽培がさかんになりはじめた18世紀末頃に、この金が枯渇しはじめ、ミナンカバウの王権に翳りが出始めた。これに加えて19世紀初頭に、パドリ派と呼ばれるイスラム改革派が西スマトラで台頭しはじめた。


ミナンカバウ人は元々、世界的に見ても珍しい母系社会の民族である。土地や財産は母から娘へと受け継がれ、男性は一定の年齢になるとスラウと呼ばれる集会場で共同生活を送り、成長したら他の土地に出稼ぎに行って、一旗揚げて帰ってくるのが理想的とされる。

この伝統的慣習と父権性の強いイスラムの慣習には矛盾が大きいが、ミナンカバウ社会ではこれらの伝統的慣習を「アダット」と呼び特例的に扱うことで、両方の慣習を共存させていたのである。この他タバコや酒、キンマやアヘン、賭博等も、ミナンカバウ伝統社会の慣習として、アダットとして認められていた。


1803年、メッカ巡礼から戻って来た者(3人のハッジ)を中心に、これらのアダットを反イスラム的なものと見なして、宗教改革運動を行う者が現れた。ミナンカバウの一部の村では彼らの活動を支持し、、後にパドリ派と呼ばれるイスラム改革派となった。一方で、彼らに反対して伝統的慣習を守ろうとする村も存在したが、これらの保守的な村は、パドリ派による襲撃を受けることになった。こうして改革派であるパドリ派と、保守派である反パドリ派の武力衝突に発展した。


この余波を受けたのが、ミナンカバウに近接するマンダイリン・バタック族と、さらにその北に位置するアンコーラ・バタック族である。パドリ派のイスラム改革運動を受けて、これらのバタック族の多くはイスラムに改宗していった。現在、この両部族にイスラム教徒が多いのは、このためである。またマンダイリン・バタック族の一部は、スマトラ島東部からマラッカ海峡を渡ってマレー半島へと逃げ延びた。現在もマレー半島にはマンダイリン・バタック族起源の人々が多く暮らしている。


一方、徐々に旗色が悪くなっていった保守派は、イスラム改革派と対抗するため、当時一時的にスマトラを支配していたイギリスに支援を求めた。しかしその後、英蘭協定に基づきイギリスが撤退し、代わりにオランダが介入する。これにより1821年、ミナンカバウのイスラム改革派とオランダ東インド政庁との間で戦争が始まった。これがパドリ戦争である。


オランダは当初、早期の武力鎮圧が可能だと踏んでいたが、現地の宗教への無理解*5からパドリ派のみならず保守派の民衆からも大いに反感を買い、結果的にミナンカバウ人全てを敵に回すことになった。それに加えて、同じイスラム国家であるアチェからパドリ派へ武器が援助されたことと、1825年には東インド政庁のお膝元であるジャワ島でディポヌゴロ王子が叛旗を翻し、ジャワ戦争が始まったことで兵力をさかれ、長期化を余儀なくされる。

1833年にオランダは、離反しそうになったミナンカバウ保守派の首長らを懐柔するため「プラカット・パンジャン」と呼ばれる協定を発表した。この中には、ミナンカバウのアダットや、王室、地方首長らの権利を認めることに加え、コショウやコーヒーについては課税はするものの基本的に栽培および販売は生産者の自由にしていいことなどの約束が盛り込まれていた。この協定の中身は、保守派の首長らを満足させられる内容とはほど遠いものであった。それでも、改革派への対抗と民衆を納得させる必要から、主張らは不承不承この協定に合意してオランダに協力したのである。そして1838年、パドリ派最後の砦が落とされて、15年を越えるパドリ戦争はようやく終結した。


ところが戦争が終わるや否や、オランダは自ら提案したはずのプラカット・パンジャンを、一方的に反古にした。「課税はするが栽培・販売は原則自由」としていたコーヒーについても、ジャワ島で行ったのと同様、強制栽培制度を導入したのである。

ミナンカバウ人ではない、マンダイリンやアンコーラ・バタック族が暮らしていた南タパヌリ地方(ミナンカバウのやや北)では1841年に、そしてミナンカバウ地方で1847年に強制栽培制度が導入されている。

ただし、強制栽培制度とは言ってもミナンカバウ地方のものはジャワ島のものとは少し性質が異なった。ジャワ島では耕作地の一部で指定作物を栽培させ、それを指定価格で安く買い上げる制度であったが、ミナンカバウでは出来たコーヒー豆を強制的に一箇所に集めさせ、安く買い上げる仕組みであった。このため、ミナンカバウの場合は「強制搬入制度」とも呼ばれている。ただし、強制栽培制度も強制搬入制度も、システム的な違いはあるものの、どちらにせよオランダが現地住民から法外な搾取を行ったことには違いはなかった。このスマトラの強制栽培、強制搬入制度は1908年まで続けられた。


バタック戦争

マンダイリンやアンコーラ・バタック族の北には、トバ・バタック族と呼ばれる部族が、古くからのバタック族の伝統を引き継ぎながら暮らしていた。彼らが暮らすトバ湖*6周辺は、古くから稲作で栄えた地帯である。オランダによる強制栽培制度がすぐ南にまで広がってきたことが、トバ・バタック族にとって大きな脅威だったことは、想像に難くない。


一方、このトバ地区を巡ってもう一つの「ヨーロッパ人の思惑」が交錯していた。キリスト教による布教活動である。キリスト教の宣教師らがスマトラ島に来るようになった頃には、北端のアチェにも西スマトラのミナンカバウにも、既にイスラム教が普及しており、キリスト教の入り込む余地は無かった。これに対し、アチェとミナンカバウに挟まれたバタック族は原始的な土着信仰があるのみだと考えられていた。そこでイギリス、オランダ、ドイツなどのキリスト教宣教師たちが、18世紀頃から、この地で布教活動を試みたのである。

しかし上述したように、バタック族は人食い人種であり、布教には多くの犠牲を伴った。19世紀中頃までは、トバ湖を見て生きて帰ったヨーロッパ人はいなかったのである。

そんな中、1862年に、ルーテル教会派のドイツ人宣教師ルードヴィヒ・ノメンセンらが、トバ地区に隣接する港市バルスを足がかりにして、バタック族への伝道活動(Batakmission)を行った。子供のためのミッションスクールと、ゴスペルを利用した布教活動が成果を上げ、1865年には2000人のバタック族をキリスト教に改宗させることに成功した。


しかしそれでも、トバ湖周辺への伝道活動は大いに困難を極めた……というのも、そこにバタック族の伝統信仰と結びついた「神聖王」シ・シンガマンガラジャ12世がいたからだ。上述したようにバタック族は一枚岩ではなかったが、この「シ・シンガマンガラジャ」は、バタック族すべての祖先につながる王族であり、信仰と敬意の対象であった*7

元々バタック族は、スマトラ内陸部の例に漏れず、自らを始祖とする創世神話を有している。バタック族の創世神話によれば、地上のすべては水に覆われていたが、バタラ・グル(ヒンドゥー教におけるシヴァ神*8)の娘、プティ・オルラ・ブランが地上に降り立つことを望み、父である神がそれに応えて、トバ地方にあるバッカラ山を天界から降ろして、そこから地上世界が広まったとしている。


また、子宝に恵まれていなかったバッカラの一首長の妻が、天から降って来たジャンブ・バルスの実を食べて身ごもり、天から燕が降りて来て、その子の父がバタラ・グルであり、シ・シンガマンガラジャと名付けるべきだと告げたとしている。シ・シンガマンガラジャは、雷鳴が轟く暴風雨で、精霊がうろつく中で生まれたという。シ・シンガマンガラジャは雷と雨を支配するバタラ・グルの化身であり、稲の豊作を象徴する王でもあった。

シ・シンガマンガラジャ12世の存在を、布教活動最大の障害と考えたノメンセンは、1878年、バタック族により多くの宣教師が殺されているとオランダ東インド政庁に訴え、宣教師保護の名目の元に彼を排除しようと目論んだのである。


一方、オランダにとっても、この申し出は「渡りに船」であった。1873年に、オランダはアチェ王国との間で戦争状態になっていた(アチェ戦争)。アチェにおけるイスラム勢力の抵抗は激しかったが、1878年頃にはオランダはアチェの港市の大部分を掌握することに成功していた。しかしその傍らで、当時のオランダがもっとも恐れていたのは、パドリ戦争の再燃であった。すでにアチェの残存勢力の一部は山間部へと逃れ、ゲリラ戦の様相を呈しつつあった。アチェからミナンカバウ地方に至るスマトラ島の北半分が一斉に蜂起することは、何としても避けなければならなかった。アチェとミナンカバウの二つのイスラム勢力が再び結びつくことを危惧したオランダは、トバ地方を制圧すると共に、その地にキリスト教を布教させることで、アチェとミナンカバウという二つのイスラム圏を分断したいと考えたのである。


こうして、シ・シンガマンガラジャ12世を旗印とするバタック族と、ノメンセンに道案内されてきたオランダ東インド軍の間で、1878年に戦争が始まる。これがバタック戦争である。

バタック族は勇敢に戦ったがオランダの兵力の前に破れた。シ・シンガマンガラジャ12世は山中に逃れ、30年もの間にわたり抵抗活動を続けていった。しかし1907年ついに捉えられて、オランダによって処刑される。こうしてバタック戦争は終結し、バタックの王系もここで絶えてしまったのである。なお、この30年にも及ぶ抵抗から、シ・シンガマンガラジャ12世は現在、インドネシアの民族運動を象徴する英雄として讃えられている。以前の1000ルピア紙幣にもその肖像が使われていたほどだ。


一方、上述したアチェ戦争においても、山間部に逃れた残存勢力がゲリラ戦を展開し、その制圧には1904年頃までかかった。オランダがアチェ残党の最後の砦を落として、スマトラ島を制圧したのは1912年のことであった。これによって、現在のインドネシアに相当する地域がオランダ東インドとして、完全にオランダの手に落ちたのである。

トバ地方はオランダの占領下にはなったものの、強制栽培制度の導入はなされなかった。この頃すでに、オランダ国内での批判が高まり、強制栽培制度から倫理政策への転換が進んでいたためである。このため、トバ地方においては、現地住民による小規模なコーヒー農園が発達していくことになる。またスマトラ内陸部を完全掌握したオランダは、東海岸の都市メダンから、バタック地方との境界に近いアチェ州南部のアラス地方につながる自動車道を整備し、内陸部の未開地開発にも力を入れた。この新しい開拓地にも、南からトバ・バタック族などが移住してコーヒー栽培を始めたことで、コーヒー栽培はトバ湖からさらに北、アラス地方のさらに北のガヨ地方タケンゴンにまで広がっていったのである。


太平洋戦争とインドネシア独立

太平洋戦争の時代に突入すると、インドネシアの置かれた情勢は一変する。1942年、日本軍がジャワ島やスマトラ島に侵攻してオランダによる植民地政権を排除し、オランダ領東インドは日本軍政下に置かれることになる。日本軍は、インドネシア民衆の支持を得るため、オランダによって囚われていたスカルノやハッタら、インドネシア民族運動者を解放して協力を要請した。一方、民族主義者側も、この流れを利用して、インドネシアの独立を果たそうと考えて、その要請に応じた。


スカルノらは、1945年8月19日にインドネシア独立を宣言することを内定し、日本軍もそれを承認した。しかし1945年8月15日に日本は敗戦する。独立が白紙化することを危惧したスカルノとハッタは、その2日後の1945年8月17日、インドネシア国民の名においてインドネシア独立を宣言した。

これに対してオランダは独立の無効を主張して軍を派遣し、インドネシア独立戦争が始まった。武力で勝るオランダに対して、インドネシア側はゲリラ戦により徹底抗戦した。またオランダの植民地主義に対して国際的非難が集まり、外交交渉による解決が図られた結果、1949年に初代大統領スカルノのもと、インドネシアは正式にオランダからの独立を果たしたのである。

*1:安息香はトバ湖周辺、竜脳はそのやや北西のダイリ地区、金はやや南のミナンカバウ地方にかけての山地で採取されていた。

*2:さらに、ムラカ王国の残党がマレー半島南端のジョホールに王国を作った。このため、当時はポルトガル領ムラカ、アチェ王国、ジョホール王国が三つ巴でマラッカ海峡の交易の覇権を争っていたと言える。

*3:東征したアレキサンダー大王がインドネシアで海の王様の娘との間に3人の男子をもうけた。長男は西に行って東ローマ帝国の王に、次男は東に行って中国と日本の王に、三男はジョホールに残った。かつてスマトラ島は水中に沈んでいたが、島が浮上しはじめると、三男はミナンカバウのマラピ山に漂着し、やがてそこにパガルユン王国をひらき、そこからインドネシアの諸部族が始まった。

*4:一方でこれらの港市国家の多くはイスラム国家でもあった。内陸の古い王権との関係を損ねずに、かつイスラムに改宗したことを説明するため、これらの国の建国譚では王の夢に予言者ムハンマドが現れ「お告げ」をしたことがきっかけになって改宗した、というエピソードがしばしば見られる。

*5:現地のモスクを軍の駐留のための施設に使い、あまつさえ、イスラムでは悪魔の使いとされたイヌをモスクの内部に入れるなどの行為から、イスラム改革派とイスラム保守派両方の反感を買った。

*6:巨大なカルデラ湖であり、中央にはサモシール島と呼ばれる島(ただし陸地とつながっている)がある。島を除いた湖面面積で琵琶湖の2倍、島を含めると琵琶湖の3倍もの大きさである。

*7チベット仏教における、ダライ・ラマのような位置付けに近いものがあったらしい。

*8:破壊神であると同時に創造神としての面も持つ。