オランダによるインドネシアのコーヒー栽培

インドネシアでコーヒーの栽培がさかんになったのは、ひとえにオランダ、さらに言えばオランダ東インド会社(以下、VOC*1)の「功績」である……それを単純に「功績」と言っていいのであればだが。


17世紀、オランダは東インド地域での香辛料貿易の覇権をポルトガル、イギリス、イスラム諸国などと争った。1619年、VOC総督ヤン・ビーテルスゾーン・クーンは、ジャワ島西部にあったイスラム国家、バンテン王国に属していた北岸の港町「ジャヤカルタ」(現在のジャカルタ)を占拠した。ここをバタヴィア(Batavia)と名付け、強固な要塞バタヴィア城を築いて、この地をインドネシアにおける貿易拠点にしたのであった。


VOCのインドネシア支配は、当初「点と線」と言われたように、貿易品の集積と、日本や台湾などとの東方貿易のための中継点という目的が大きかった。周辺の島々から得られるコショウなどの香辛料や、東方貿易の中継点として栄えたが、やがてヨーロッパにおけるコショウの価格暴落や、鄭成功の台湾占拠による対中貿易破綻によってその繁栄に翳りがおとずれる。するとVOCはインドネシアの島々を領土化し、そこで熱帯作物を栽培して利益を上げるという戦略へとシフトしていった。俗に言う「面」の支配への移行である。当初これは綿花やインディゴ(藍)などで試みられたが、もっとも成功をおさめたのがコーヒーであった。


当初、VOCの支配が及んでいたのはジャワ島の限られた地域であった。島西部の北岸にあったバタヴィアから、そのまま南の内陸部へと続くプリアンガンと呼ばれる地域がそれにあたる*2。VOCはこの地域で、「ブパティ」と呼ばれる現地社会の首長を、官僚として任命した。そしてプバティを介して、通常の税とは別に、オランダ側が指定する作物を栽培して供出する*3ことを領民に科した。この制度は「プリアンガン制」あるいは「義務供出制」とも呼ばれる。後に本格化する「強制栽培制度」の原型は、この頃に出来上がっていたのである。1677年にプリアンガンがVOCの直轄領になってからも実質的な支配はブパティに委ねられ、この地で大規模なコーヒーの義務供出制が実施されて、VOCは莫大な利益を得た。やがてVOCはその強大な武力をもって、インドネシア諸王朝の対立に付け入るかたちで、その支配する地域を徐々に広げていった。それに伴って、コーヒー栽培もまたインドネシア全体へと広がっていった。


1798年、その無計画な経営方針と急激すぎる領土拡大による財政悪化から、VOCが解散すると、インドネシアはオランダ本国によって直接統治されることになった。しかし、19世紀の初頭にはオランダ本国がナポレオンによってフランスに併合され、インドネシアは1811年から1816年にかけて、イギリスによる植民地統治を受けることになる*4。1814年にイギリスとオランダの間でロンドン条約が締結され、イギリスがマレー半島を、オランダがスマトラ島をそれぞれ統治することを相互に承認し、インドネシアは「オランダ領東インド」として、再びオランダの植民地統治下に入る。


しかしその後、1820年代に入ると、ジャワ島(ジャワ戦争)やスマトラ島西部(パドリ戦争)での反乱が勃発した。バタヴィア総督府はゲリラ戦に苦しみながらなんとか制圧していったものの、莫大な軍事費によって財政が悪化した。さらにオランダ本国でも経済情勢が悪化*5していた。

これらの財政危機を解決するため、1830年バタヴィア総督になったファン・デン・ボスは、植民地利用による財政復興を計画し、かの悪名高い「強制栽培制度」を導入したのである。

この制度では、農民は耕地の5分の1を使って、オランダ側が指定する作物の栽培を行うことが強制された。オランダ側はその耕地にコーヒーノキを植えさせ、また別の年には、市場価格に応じてコーヒーノキを切らせて、東インドでのコーヒーの生産量をコントロールした。収穫された作物は、オランダ側が決めた価格で安く買い取られた。農民には安い賃金が支払われたものの、その大半は税として徴収され、さらに無償の夫役義務まで課せられた。このようにしてオランダは、植民地の生産力を最大限に搾取し、インドネシアのコーヒー栽培で大きな利益を得ることに成功したのである。

*1オランダ語で「東インド会社」を意味する"Vereenigde Oostindische Compagnie"の略。

*2:この他、ジャワ島東北海岸領なども該当した。

*3:無償で供出する場合と、オランダ側の言い値で安く買いとられる場合があった。この両者を区別して用語を使い分けるケースもあるが、実質的には両方のケースが混在していたらしい。

*4:このとき植民地経営に当たったのが、後にシンガポールを興したトーマス・ラッフルズである。

*51830年に有力な工業地帯であったベルギーがオランダから独立したことがその原因である。