インドネシアへの伝播

#アラビカ種ティピカの年譜

  • (1670年?ババブダンがモカ港からインド西部にイエメンのコーヒーを持ち帰る。後のオールドチック)
  • 1690年 ジャワ島のバタヴィア(現在のジャカルタ)に、イエメンから来たコーヒーノキが植えられる?
  • 1696年 インドのマラバールからの本格的な移植(第一回)。翌年、水害で全滅して失敗に終わる。
  • 1699年 マラバールからの移植(第二回)。インドネシア全土へ普及。「ジャワ」という銘柄のはじまり。
  • 1706年 バタビアからアムステルダムの植物園にコーヒーノキが送られる。
  • (1714年 アムステルダムからパリ植物園に寄贈)
  • (~19世紀末、オランダ・フランスの手で世界に広まる)
  • (1753年 リンネが押葉標本にCoffea arabicaと命名。「アラビカ種」という名の始まり。)
  • (1913年 クレーマー P.J.S. Cramer がリンネの基準標本に「ティピカC. arabica var. typica という変種名を付ける。)

インドネシアにコーヒーが伝わった年としては、文献上、1690年、1696年、1699年の3つの年代が挙げられている。このうち最初の「1690年」には、VOC総督ジョアン・ヴァン・ホールンが、ジャワ島のバタヴィアにあった彼の家の庭に、イエメンからこっそり持ち出したコーヒーノキを植えたとされる。これが記録上、インドネシアへの最初の伝播であるようだ。このときの木は、イエメンのアデンから持ち出されたものだと考えられる。ただし、この記録を採用している文献が多くない*1ため、正確なところはよく判らない。


また、後にジャワ島全体で栽培されていたものも、この木の子孫というわけではないようだ。

インドの西海岸にあるマラバールから送られたコーヒーノキがジャワ島に送られて商業目的での栽培が始められた。これが1696年のことである。ただし、このときに持ち込まれたコーヒーノキは翌年バタヴィアを襲った水害によって全滅してしまった。そこで1699年、再びマラバールからコーヒーノキが送られた。それがジャワ島全体に広まり、その後スマトラやスラウェシなど近隣の島々へと広まっていったとされる。これこそが、後の「ジャワコーヒー」の起源と目されるものだ。すなわち、その起源はインドのマラバールということになる。


では、このマラバールのコーヒーはどこから来たものなのか? この頃までには、ババ・ブダンがインドにコーヒーをもたらしていた*2と考えられるのだが、インドネシアに持ち込まれたコーヒーが、そのインドのコーヒー(オールドチック)だったのか、それともモカやアデンから運び出されたものが、一旦マラバールを経て辿り着いただけなのか、はたまた1658年にスリランカ(セイロン)に植えられたコーヒーとの関係はどうなのか……考えだすと本当にきりがない。


きりがないのでとりあえず、話を一旦別の方向に進めてみよう。

1706年には、インドネシアバタヴィアから、オランダのアムステルダムにある植物園にコーヒーノキが送られた。この木の子孫は、かたやオランダ人の手によって、1718年にスリナム(オランダ領ギアナ)に持ち込まれ、かたや1714年にはフランス国王ルイ14世に寄贈された後、フランス人の手によって中米へと持ち込まれ、18世紀末頃までに世界中に広まることになる。

スリナム経由にせよ、フランス経由にせよ、中南米に初期に伝播したコーヒーはインドネシアのものに由来すると考えてよい。しかし厳密に言うとここもまた、アムステルダムに送られたのが、1690年にバタヴィアに渡ったものの子孫なのか、1699年にマラバールから運ばれて来たものの子孫なのかはよく判らない。そもそも、その両者が同じものだったのか、元から別物だったのか、それとも元は別物ながら途中で混ざってしまったものなのか、両者の関係についても現在ではよく判っていない、というのが正直なところだ。ただ少なくとも、1690年と1699年のものには、植物学上、簡単に識別できるほどの「大きな違い」があったわけではないだろう。もしそうならば、文献上でもっと違いが強調されていてもおかしくないからだ。


このときインドネシアからオランダに送られたコーヒーノキの子孫はヨーロッパの植物園で栽培されつづけた。1753年、そのうちの一つから作られた押葉標本に基づいて、リンネがCoffea arabicaという学名を付けた*3。これが「アラビカ種」である。20世紀には、Cramerがこのアラビカ種にいくつかの変種があることを提唱した。Cramerは1913年、元々の基準に当たるこの標本に「標準」を意味するtypicaという変種名を「新たに」提唱し、C. arabica var. typicaと名付けた*4。これが今日の「ティピカ」という名の元になっている。


リンネが命名した当時の標本は、インドのマラバールに自生*5していた植物を、インドネシアで人為的に栽培したもの由来だと考えられていた。またイエメン、インド、インドネシア、そしてオランダに渡った以降のものは、「ティピカ」という一つの系統を成すものだと考えられたのである。つまり、インドネシアに初期に導入されたコーヒーノキの品種は、植物学的に「ティピカと同一」、あるいは少なくとも「同一と見なしてよい」ものと考えられている。


ただし、植物学的にはアムステルダムを経由して広まった子孫は、まぎれも無く「ティピカ」と同じ系統のものだと言ってよいのだが、厳密に言うならば、オランダ「以前」のものをティピカと呼んでいいかどうかについては微妙な点もある。どこまで遡って「ティピカ扱い」していいか、というのは意外に難しい部分がある。しかし、新芽の色がブロンズ色であるなど、大まかな植物学的特徴が一致することから、これらはすべて同じ「ティピカの系統」のものとして扱うのが一般的だ。


ティピカという名前が植物学上は正式な命名ルールにしたがっていないことと、やはり厳密には、オランダ以前のものは、それ以降のものほど出自がはっきりしていないことから、最近は別の呼び方をする人が海外の研究者には増えて来ている。

変種名としての"typica"はルール上無効で、種小名と同じ"arabica"が有効になることと、栽培品種名としてならば'Typica'という命名にも問題がないことから以下のような扱いをする場合がある。


  1. いわゆる「ティピカの系統」に含まれるものは、アラビカ C. arabica 'Arabica' という栽培品種とする。
  2. ただし、オランダ以降のものであれば、ティピカ C. arabica 'Typica' という栽培品種と呼ぶこともある。

ただし日本人から見ると、このルールはこのルールで頭が痛い。英文では、頭文字が大文字か小文字か、斜字体にするかしないかで、少なくとも表記上では区別がつくのだが、日本語で表記するとなると、種名も栽培品種名も「アラビカ」になってしまって都合が悪い。……というわけで、ここでは基本的には単に「ティピカ」と書き、明確に区別したいときだけ「ティピカ」「ティピカ系」と書くことにしている。

*1The Los Angeles Times, June 30, 1899, p. 7に見られる。ソースが新聞記事である点からも信憑性については疑いは残る。

*2「■インドにおけるコーヒーの歴史」 参照。

*3:「■アラブのジャスミンからアラブのコーヒーへ」参照。

*4:ただしこの命名法はルールに従ったものではないため、植物学上、この変種名は無効である。通常、「基準種」の下位に変種などが設けられた場合、それまでの基準種には、種小名と同じ変種名などが自動的に付与される。これをautonym(自動名)と呼ぶ。従って、仮にC. arabicaの下に別の変種を提唱するならば、それまでの基準種はC. arabica var. typicaでなく、自動的にC. arabica var. arabicaになる。

*5:当時、ババ・ブダンによるインドへの伝播は欧米人に知られていなかったため、イエメン・エチオピア・インドがアラビカ種の自生域だと考えられていたことによる。