おさびしウサブ山のコーヒー

ラテン語版"Gihan numa"によれば、この「ウサブの地」は当地で暮らす人々の耕地の一部ではあったが、コーヒー以外に食べられるものがない場所だった、とされている。他の作物がない「さびしい土地」だった最大の理由は、その標高によるものだろう。コーヒーノキもカート*1も高地で育つ植物である。


最初にウサブ山にコーヒーを持ち込んだのは誰だったのだろうか?

これに対する明確な答えは、残念ながら存在しない。


いくつかの仮説

時代を遡って考えれば、エチオピア西南部から奴隷がやってきた9-10世紀以降あたり、特に彼らエチオピア出身の奴隷達がザビードでナジャーフ朝を建てた11-12世紀頃は一つの候補になるかもしれない。イブン・スィーナーが『医学典範』に「イエメンのブンクム」のことを書いたのもこの頃だった。しかしその後、コーヒーを思わせる記述は史料から姿を消した。


13世紀になり、ラスール朝の時代には、何人かのスルタンがザビードやその近郊での農耕を奨励し、自らも優れた農業指南書を著した。しかしそれらの農業書の中にはコーヒーノキやカートに関する記録が見られない。彼らが重視していたのは、ザビード近郊の平野部での農業の奨励であり、ウサブのような高地の農地利用はあまり考えていなかったのだろう。1330年にイエメンを旅したイブン・バットゥータの記録にも、コーヒーの栽培はおろか、その存在を伺わせる記述がない。

ただし、ひょっとしたらこのとき既に、コーヒーノキが持ち込まれていた可能性も無碍に棄てるわけにはいかないだろう。ナジャーフ朝以前のザビードエチオピア人奴隷出身の誰かが、故郷を懐かしみ、こっそり持っていたコーヒーの種をウサブ山に播いた -- エチオピア西南部では、それは単に種や実を食べるだけのためではなく、移住や結婚などの生活儀礼を意味する儀式でもある。時が流れて奴隷たちの王朝が終わりを告げると、その木のことはすっかり忘れ去られたが、その子孫はウサブ山で細々と生き延びていた。そしてさらに時が流れて、修行に訪れたスーフィーがそれを見つけた…そんな可能性もあるかもしれない。


また15世紀の初めに、エチオピアのゼイラからイエメンに逃れてきたワラシュマ家の残党とともにやってきた可能性もあるかもしれない。彼らはエチオピア西南部のイファト・スルタン国キリスト教エチオピア王国との戦いに敗れてイエメンに辿り着いた。このとき、西南部にあったコーヒーノキやカートのさまざまな利用法と、それらの植物そのものをイエメンに持ち込んだ可能性もあるだろう。少なくとも1418年に亡くなったアリー・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリー…「もう一人のアッ=シャーズィリー」が、それらの利用法の一つとしての「カフワ」を広めていたのは確かなようだ。だが、当初それはコーヒーの葉やカートを使うものであり、実や種を使うものではなかった。

一方で、実や種を嗜好品として使う風習は、最初にザビードにくらすエチオピア奴隷階層出身の人々(アビード)に受け入れられ、そうしてザビードでの利用者が増えたことで、ザビードから近いウサブ山で栽培する者が現れたかもしれない。ウサブ山はスーフィーの修行場でもある。彼らはウサブ山で実ったコーヒーの実を集めて、あるときは実の部分だけで、あるときは種ごと煮出してスープを作って餓えをしのいだ。そのうちに、それもまた眠気を取り除く「カフワ」になることを見いだした。

コーヒーノキでカフェインを最も多く含む箇所は、種子(コーヒー豆)と新芽の部分である。コーヒーの葉を用いるカフワは、新芽だけから作るならばそれなりの効果が期待できるかもしれないが、コーヒーはそんなにどんどんと新しい芽を付ける植物ではないし、古い葉ばかりになると効き目は落ちるだろう。実の部分は種子よりもカフェインは少ないが種子に比べればまだ栄養がある。栄養を取りたいならば実の部分を、覚醒作用をより強く得たいならば、実と種子を合わせて「カフワ」にすることは、理に適っているように思える。


ともあれ、保存がきかないカートの葉に比べて、コーヒーの実や種は乾燥させれば長持ちしその効果も衰えなかったから、放浪生活を送るファキールたちにとって便利なものだったことは間違いない。さらに、それは高い山から遠く、当時の輸送手段ではカートの生葉を運ぶことができなかった港町アデンでも使うことが可能な「カフワ」になった。はじめてコーヒーを公認したアデンのムフティー、ザブハーニーは、若い頃非常に勉強を重ね、後にスーフィーになったと伝えられる。おそらく彼はスーフィズムを学びファキールたちと交流するうちに、この「カフワ」に出会い、そしてそれをアデンの人々にも広めたのである。

*1:標高1000-2500mで育つ