カフワの始まり?

アリー・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリーの生涯についてはよく判っていない。ただ、その没年は1418年だとされている。18世紀後半にモカで彼の話を聞いたニーブールも「およそ400年前の人物」と記録しており、14世紀後半から15世紀初頭の人物だったと見ていいだろう*1。したがって「初期のカフワ」がイエメンに導入されたのが「いつ」かということについては、これと同時期、「14世紀後半から15世紀初頭」と考えられる。


彼はモカ守護聖人として伝えられる人物であり、現在のモカかその周辺…すなわちザビードとアデンの間あたりで活動していた可能性が挙げられる。しかし彼が広めたという初期の「カフワ」にはむしろ、いくつかの点でエチオピアの風習との共通点が色濃く見られる。

初期の「カフワ」はコーヒーの葉またはカートであったと言われる。しかしコーヒーの葉の利用は現在のイエメンには見られず、もっぱらエチオピアに見られる風習である。エチオピアでは西南部の部族(マジャンギル族の「カリオモン」の儀式)がコーヒーの葉を茶として利用するほか、ハラー地区においても「カティ/クティ・カフワ」という名前で利用されている。

カートもコーヒーと同様エチオピア原産の植物であり、現在のイエメンでは専ら生の葉を噛みタバコのように噛んで利用するのが一般的である。カートについても16世紀の初頭に(コーヒー利用と同様に)イスラム社会で合法かどうかを巡る議論があり、16世紀初頭のイエメンでも現在と同様、主に「噛んで」利用していたことが記録されているようだ。他方、エチオピアにおいてはカートからジュースを作って飲む方法が現在も見られる。これらのことから考えるとコーヒーの葉やカートから「飲み物を作る」のは、イエメンよりはエチオピアの風習に近いようだ。


アリー・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリーが(アル=マッキーの言うように)これらの「カフワ」を「イエメンで」人々に広めたのであれば、彼自身がエチオピア渡航して学んだものか、あるいは別の人物がエチオピアから伝えたものを彼が採用したものか…彼の没年は1418年なので、イファトから逃れてきたワラシュマ家の人々に出会うことは可能だったはずだ。

*1:同じくモカ守護聖人とされる「アッ=シャーズィリー」にはもう一人、13世紀の人物がいる。トルコの地理学者が記録したシャイフ・ウマルの伝説において、ウマルの師であったアッ=シャーズィリーである。彼は1258年にマッカへの巡礼中にザビード東部のウサブ地方の山地で死に、死後ウマルの元に現れて彼をモカへと導いたとされる。「アリー・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリー」の名前には「ウマル」も含まれているが、これは「イブン・ウマル(=ウマルの息子)」、すなわち父親の名前であって、本人の名前ではない。ただし紛らわしいことは確かであり、さらに後世のアイダルースなど、モカに関わる数名の聖人の話が混同されている可能性をハトックスは指摘している。