アクスムの落日、イスラムの黎明

サーサーン朝ペルシアの侵攻によって、アクスム王国はイエメンの支配権を失った。このことはアクスムが紅海の支配権を失い、勢力を落とす一つの引き金になったといえる。しかし、もっと直接、大きな影響を与えたのは、イスラム教の台頭である。とは言っても、イスラム教が始まった頃、アクスム王国はむしろイスラム教徒らに寛容で好意的ですらあった…後のエチオピア国内での激しい対立など、この頃には予想できないほどに。


預言者ムハンマドが神の啓示を受けたのは西暦610年頃であると言われ、ここからイスラム教が始まったと言ってもよいだろう。ムハンマドは613年頃から、公にマッカで宣教活動を始めたと言われる。ムハンマドのもとには徐々に、彼を信じて付き従う者が集まっていったが、当時のマッカにいたクライシュ族の間では多神教偶像崇拝が普及しており、ムハンマド一神教偶像崇拝批判は彼らを激怒させた。ムハンマドの最初の追従者らには社会的に弱い立場の者が多く、マッカの多神教徒から迫害を受ける危険にさらされていた。西暦614/5年、預言者ムハンマドは彼の追従者に一時的にエチオピアに避難することを勧め、約80名の信徒がアクスム王国に渡った*1

しかしマッカの多神教徒らが、アクスム側に使節を送って彼らの引き渡しを求めたため、イスラム教徒らは当時のアクスム国王、アシャマ・イブン・アブジャールの前で庇護を訴えた。イスラム教徒らは、自分たちが崇拝する神が、キリスト教と同じ「アブラハム一神教」の神であることを示し、「同じ神を信じる仲間」であることを王の前で証明した……とは言え、実は当時のアクスムはいわゆる単性論派の立場でイエス・キリストを神と同一視しており、イエスイーサー)を預言者の一人として位置づけるイスラムの立場とは異なっていた。そこでイスラム教徒らはクルアーンの中の、聖母マリアに関する一節を朗誦して、アクスム国王に自分たちの神と彼らの神が同じであると証明することに成功した。伝承によれば、朗誦を聞いたアクスム国王は「実にこれはイエスがもたらしたものと同じ源泉を共有するものだ」と感激の涙を流したという。こうして、イスラム教徒らはアクスム国内に留まることを許され、小さな共同体を作って生活するようになったと伝えられる。


無論、アクスム国王がムハンマドの最初の追従者たちを受け入れた背景には、ペルシアの介入によって失われていた、アラビア半島との経済的、政治的なつながりに関する思惑もあったかもしれない。しかし、このエピソードによって、アクスム王国イスラム教徒らにとって「寛大な王の治める国」と考えられるようになったことは間違いないようだ。その後、7-8世紀にかけてイスラム教が急激に拡大し、イスラム教徒であるアラブ人商人が紅海の沿岸部で大いに活動しはじめると、アクスム王国にも多くのイスラムの商人たちが訪れたようだ。

しかし皮肉なことに、アラブ人商人たちが急激に台頭し交易を盛んに行うようになったことで、紅海交易の独占で利益を得ていたアクスムの経済力はみるみる衰退していった。加えて、彼らアラブ人の一部が紅海沿岸部に定住して商売を行うようになると、それとともにイスラム教の布教も進み、イスラム圏がみるみる拡大していった。例えば、この当時アクスムにとって重要な紅海交易の場所であったダフラク諸島は、8世紀頃にはイスラム化していたと言われている。

こうしてイスラム圏の拡大によって、アクスムは徐々に沿岸部からはじき出され、内陸部国家に変化していった。そしてこのことが、9世紀に見られるアクスム王国の南下の引き金になるのである。

*1預言者ムハンマド伝(4/12):マッカでの迫害 - イスラームという宗教 - http://www.islamreligion.com/jp/articles/172/ Prophet Muhammad - http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/muhammad.html