アクスムの隆盛

シバの国の「伝説」についてはこのくらいにして、エチオピアに実際に存在した証拠が残っている国の話に入ろう。

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(紀元前400年頃のアフリカ。http://en.wikipedia.org/wiki/File:Africa_in_400_BC.jpg を参考に作成)


現在エチオピアでもっとも古く記録が残っている国家は、ダアマト(D'mt、ダムト)である。ただし鉄器や武器が使われていたことや、ゲエズ語が用いられていたこと、何人かの王の名前が判明している程度で、その成立や滅亡などの過程についてはよくわかっていない。エチオピア北部から現在のエリトリアに及ぶ地域(ティグレ地方からベジャ地方)の高地に成立した国家で、紀元前10世紀から紀元前5世紀頃にかけて存在していたと考えられている。紀元前7世紀頃には、紅海貿易で最盛期を迎えていたようだ。おそらくこの頃は、北に位置するエジプトを介するルートでの交易が主流であったためだと思われるが、その後、アラビア半島との交易が盛んになり、紅海貿易の中心が南寄りにシフトしたことで、より南の港アドゥリスに近い、アクスム王国に取って代わられたものと考えられる。研究者の中には、アクスム王国がダアマトの後継国家であったという説を唱える者もいる。


ダアマトより少し遅れて、紀元前5-3世紀頃には、ティグレ南部の高地に位置するアクスムに定住する人が現れたと考えられている。そして1世紀頃には、この地を首都としてアクスム王国(Kingdom of Aksum/Axum)が興った。アクスム王国は、マッサワの30km南にあったアドゥリスの港を中継地として、2世紀以降、紅海交易をほぼ独占するようになった。アフリカ大陸の象牙や香料(乳香など)、南インドから紅海に入ってきた交易品が、ここからローマ帝国に運ばれるようになり、その経済力と軍事力で、2-4世紀には紅海沿岸地域の主要国家の一つに数え上げられるまでに成長した。


初期のアクスムは中央集権性の強い国家であり、その国王は代々「ネジャシ Nejashi *1」と呼ばれ、ソロモン王とシバの女王の子孫であることを自称していたという。3世紀初頭のガダラ王(GDRT)の治世には、既にその勢力範囲は紅海を超えアラビア半島沿岸(ティハーマ地方)の一部にまで到達していた。また西暦270年頃、アクスムではすでに当時のローマの通貨を真似た独自の金貨や銀貨が作られており、当時の隆盛が伺える。


王様と二人の子ども

建国当初のアクスムでどのような宗教が受け入れられていたかは判らない。おそらくは先住民的な多神教(一部にはユダヤ教信者がいた可能性も考えられる)が一般的であったと考えられるが、4世紀のはじめに、エザナ王が洗礼を受けてキリスト教が国教になった。この経緯にまつわる物語は、以下のように伝えられている。


4世紀の初め、シリアのティルス(現在のレバノンの一角)に、フルメンティウスとエデシウスという二人の幼い兄弟がいた。316年、彼らは叔父のメトロピウスに連れられて、エチオピアに向けて船旅に出た。しかし港への停泊中に付近の住民に襲撃を受けて、幼い二人を除いてみんな殺されてしまい、兄弟もまた捉えられて、奴隷として売り払われてしまった*2。彼らが売られた先は、アクスムの王宮だった。彼らは言いつけを守ってよく働いたため、王様*3も彼らを非常に気に入って可愛がった。高齢だった王は自分の死期が近づいたのを悟ったある日、二人を呼び寄せて奴隷の身分から解放した。国王の死後、彼ら兄弟は故郷ティルスに帰ろうとしたが、未亡人となった王妃は彼らを引き止めた。王位を継いだ先王の息子エザナ王は当時まだ赤ん坊で、王妃が後見人になっていたのだが、兄弟に王の家庭教師になってほしいと望んだのである。こうして彼ら兄弟はエザナ王の教育係となるとともに、アクスムキリスト教の考え方を紹介することになった。


エザナ王が成長すると、エデシウスは故郷ティルスに戻ったが、フルメンティウスは引き続いてエチオピアに留まった。あるときフルメンティウスはエザナ王に呼ばれ、自ら「本物のキリスト教徒」になるために洗礼を受けたいと告げられた。そこでフルメンティウスはアレクサンドリアの教会まで旅立ち、アクスムの国王に洗礼を施すのに適した立派な司祭を派遣してもらえるよう願い出たのである。アレクサンドリアの総主教アタナシウスは、しばらく考えた後、アクスムにキリストの教えを広めてきたフルメンティウスこそが、国王を洗礼するに最も相応しいとして、彼を正式にエチオピアの司教に任命した。これが328年のことだと言われる(340年代という説もある)。その後フルメンティウスはアクスムに戻ってエザナ王に洗礼を施し、さらにアクスムの人々にキリスト教を広めた。


この話は、ティルスキリスト教司祭になったエデシウスが書き残したものと伝えられている。アレクサンドリア教会は、古代5主教座に数えられる権威ある教会で、アレクサンドリア総主教はアレクサンドリアから全アフリカにかけてのキリスト教信者と聖職者の頂点に位置する、非常に高い位であった -- 非常に大雑把な喩えで言えば、現在のローマ教皇をもうワンランク、小型版にしたような存在とでも言えばいいだろうか。

このフルメンティウスのときから、エチオピア司教座はアレクサンドリア総主教によって任命されるという伝統が生まれた。後の時代には、時のアクスム国王とエチオピア司教が不仲となり、別の司祭を求める手紙がアレクサンドリア総主教に送られたり、一時期アレクサンドリアエチオピア司教の任命を拒否したなどの記録も残っている。ともあれ、アクスムは4世紀にキリスト教化した後、ずっとそれを貫き通した。7世紀にイスラム教が隆盛し、やがてアレクサンドリアやエジプトなどまでがイスラム教国家に支配されても、数少ないキリスト教勢力としての地位を守り続けたのである。


アクスム王国キリスト教国化するにあたっては、同じキリスト教国で、その長でもあったローマ帝国の影響が大きかったと考えられる。この当時のアレクサンドリアティルスローマ帝国に属していた。アクスム王国にとってローマは重要な交易相手国であり、元々、通貨制度などでもローマ帝国を模範にしてきた。ローマ帝国はサーサーン朝ペルシアとの対立から、330年に交易の要所であったビザンティウム(遷都後、コンスタンティノープルに改名:現在のイスタンブール)に遷都している。アクスムキリスト教国化のエピソードからはこれらの都市とアクスムに交流があったことと、アクスムが宗教・文化面ではアレクサンドリアの下につくことで、ローマ帝国(特に後の東ローマ、ビザンツ帝国)とのつながりを強めようとしていたことが伺える。

*1:"nejashi"または"al-nejashi"は、9世紀頃のアラビアの地理学者であるアル=ヤアクービー(al-Ya'qubi)がハバシャ(habasha, アビシニア=エチオピアのこと)の王が代々用いた称号として記録している。おそらくはエチオピアで「王」を意味する"negus"と同源の言葉であろう。

*2:叔父のメトロピウスは彼らをインドに連れて行こうとしたが、途中で海賊に襲われた、という別のバージョンもある。

*3:おそらくオウサナス王だと言われる