「シバの女王」と「失われた聖櫃(アーク)」

旧約聖書に現れる古代イスラエルの第三代の王、ソロモンは父ダビデの後を継ぎ、イスラエルエルサレム)を大いに発展させた賢王であった。旧約聖書によれば、供物を捧げた彼の枕元に神が現れて「何でも求めるものを与える」と言ったとき、ソロモンは知恵を得ることを望み、このことを神は大いに喜び、知恵のみならず富と名誉をも与えたという(列王記 上 第3章)。ソロモン王の治世、イスラエルは外交に力を入れて、近隣諸国との条約や政略結婚によって国力を得るとともに、交易で大いに栄えて、大規模な土木工事によって国の基盤が整備された。彼はまたエルサレム神殿を建設したことでも知られる。伝承によれば、神殿を建設するために72柱の悪魔を使役し、その後で封印した魔術の始祖でもあったとされる。


ソロモンのもとには、その知恵を借りるべく、近隣諸国から多くの人々が訪れたという。「シバの女王」-- あるいは「サバの女王」「シェバの女王」とも、いずれの表記も用いられる -- も、そのうちの一人である。この「シバの女王」という名を、別のかたちでご存知の方も多いだろう。1967年にミッシェル・ローランが作曲したシャンソンの名曲 "Ma reine de Saba" -- 直訳すると「サバの女王」 -- が、世界中で大ヒットをおさめ、日本でもレーモン・ルフェーブル・グランド・オーケストラやポール・モーリア・オーケストラによるオーケストラバージョンが発売されて大ヒットした。また、1959年に紅海された映画『ソロモン王とシバの女王』( http://eiga.com/movie/46338/ )を見たことがある人もいるかもしれない。この他、バレエや歌劇の演目にも、このシバの女王を取り上げたものがあるそうだ。


シバの女王」もまた非常に聡明であったことで知られる。旧約聖書によれば、ソロモン王の名声を聞いた彼女は、彼を試そうと数々の難問を持って、多くの従者を従えてエルサレムにやってきたという(列王記 上 第10章)。ソロモンはその難問にことごとく答え、女王はその知恵に驚くとともに、宮殿やそこで執り行われる儀礼にすっかり感銘を受けた。そこで女王は、ソロモン王を大いに賞賛し、彼と彼の王国を祝福するとともに、携えてきた金や宝石、素晴らしい香料などを王に贈った。王もまたその返礼に多くの贈り物をし、さらに女王の望むものをすべて贈り物として与えた。そして女王は従者とともに自分の国へと帰っていったという。


この「シバの女王」は、イスラエルの南方にあったとされる「シバ(サバ、シェバ)の王国」を治めていた女王である。「シバの王国」がどこにあったのか、その直接の証拠となる遺跡その他が現在も見つかっておらず、本当に実在したのかについても意見が別れている。ただし、その候補として、現在のイエメンにあたるアラビア半島南部にあった「サバァ王国」のことだとする説と、エチオピアにあった別の国であるという二つの説が有力である。近年の研究者にはイエメン説を支持する人が多いようだが、エチオピアの『ケブラ・ナガスト』は後者の「シバ=エチオピア」説を支持している。こちらの説によれば、女王の本当の名は「マケダ」であったとされ、また旧約聖書には見られないロマンスと、後日談が存在する。*1


旧約聖書には、ソロモン王は「シバの女王に贈り物をしたほかに、彼女の望みにまかせて、すべてその求める物を贈った」と記載されているが、この「彼女の望みにまかせて、すべてその求める物を贈った」というのは、女王がソロモン王と一夜を共にし、優秀な王の子胤を求めたという意味だとエチオピアでは伝えられている*2。その後、自分の国を治める責務を負っていた女王は自らの「シバの王国」に帰るが、一晩の契りでソロモンの子を宿していた。シバの王国で産まれたその男児は、成人した後、エルサレムに赴いて父ソロモン王との面会を果たし、エチオピアに帰還してからは「メネリクI世」と名乗った -- 彼こそが初代エチオピア皇帝である。


さらに彼はエルサレムから帰還するとき、父の許しのもと*3モーゼの十戒を刻んだ石板を収めた「聖なる約櫃(契約の箱)」をエチオピアに持ち帰ったと伝えられている。この「聖なる約櫃」こそ、かの「インディ・ジョーンズ」のデビュー作になった映画『レイダース/失われた聖櫃(アーク)』に出てくる「聖櫃」である。旧約聖書において約櫃に関する言及は実際、途中から姿を消しており、その行方は考古学上のロマンあふれる題材の一つになっている。エジプトに略奪された説や祭司が隠した説など、諸説が存在しており、映画ではエジプトの遺跡の一つに眠っていたという設定であった。

この「失われた聖櫃」がエチオピアに現存するという説は、グラハム・ハンコックが1992年に『神の刻印』(原題: The Sign and The Seal)で述べたことで有名になったものだ…ただしハンコックは有名な「偽史家」でもあり、他の多くの歴史研究家からはこの説は酷評されている。しかしながら、エチオピア正教もまた、実際に「失われた聖櫃」を現有していることを表明しており、その実物は、アクスムにある「シオンの聖マリア教会(マリアム・シオン教会)」に収めてある、と主張している。残念ながら、その実物を見ることができるのは、教会の中でも限られた一部のみであるが。

アクスムでは毎年1月19日に「ティムケット祭(またはティムカット, Timkat)」と呼ばれる、イエス・キリストの洗礼を記念する、最大の祭りが開かれる。この祭りでは、シオンの聖マリア教会の司祭が約櫃(おそらくは、さらにそのレプリカだと思われるが)を頭の上に乗せて歩き、このときだけ信者らはそれを目にすることができるのである。このことからも「約櫃」と、その起源にまつわるシバの女王のエピソードに対する、エチオピアの人々の思いの深さを知ることができるだろう。

また伝承によれば、メネリクI世の帰還の際、彼に従ってエルサレムからエチオピアにやってきたユダヤの一族があり、彼らの子孫がベタ・イスラエルだと伝えられる。

この伝承からベタ・イスラエルは、1950年にイスラエルが制定した帰還法の対象となり、1984年のモーゼ作戦、1991年のソロモン作戦によって、エチオピアのベタ・イスラエルの多くがイスラエルに「帰還」している。

*1:上述した1959年の映画『ソロモン王とシバの女王』でも、シバの女王「マグダ」とソロモン王のロマンスが主軸にされており、大胆に脚色されてはいるがエチオピア説を土台にして作られている。

*2古代イスラエルは一夫多妻制であり、ソロモンには生涯で700人の妻と300人の側女がいたと伝えられている。シバの女王と出会ったときには、既に妻がいたが、その点では倫理上の問題は少なかったかもしれない。ただし、主が「異教に転じるきっかけになるため、異教徒を娶ったり交わったりしてはならない」としていたため、その点では問題だったかもしれない。もっとも、ソロモンは元々外国人の女性が好みだったらしく、主の諌言にも関わらず、異教徒の外国人を多く妻に迎えていた。賢王の誉れ高かったソロモン王だったが、年老いてからは彼女らが勧めるままに偶像崇拝を行ったため神の怒りを買い、それがイスラエルの分裂を招いたと旧約聖書に伝えられる(列王記 上 第11章)。

*3:一説には盗み出したとも伝えられる