パナマコーヒーの黎明

パナマは中米諸国の中では、コーヒー栽培の開始がもっとも遅かった国である。


パナマコスタリカとコロンビアの間に位置し、当初はコロンビアの一部であったものの、コーヒーの栽培に関してはコロンビアから受けた影響は少ないようだ。コロンビアには1730年頃にコーヒーが伝わり、その後19世紀まで鳴りを潜め、1835年にコーヒーの輸出が始まった。コロンビアでの栽培は南米大陸側、しかも国土の東側のククタ地区を中心に行われており、地理的にもパナマからは離れていた。パナマの中でコロンビア寄りの地域は標高が低く、コーヒー栽培に適する高地は西のコスタリカ寄りだったので、なおさら距離は遠く、影響が少なかったのだと思われる。


パナマのコーヒー栽培は19世紀後半にボケテ区に入植した人々が開墾した個人農園で始まり、その後も南米のコロンビアよりはむしろ地理的にも気候的にも近いコスタリカを含む中米側の影響が大きいと言っていい…とはいうものの、コスタリカと地続きではあっても険しい山に隔てられており、人々の行き来は頻繁ではなかったようだ。実際、コスタリカでは1776年にコーヒーが伝わってから、間もなく栽培が拡大していったが、この初期の動きが、パナマに伝わることはなかったようで、少なくとも、1868年にフランスで著された、アンリ・ヴェルテールの"Essai sur l'histoire du café"にもパナマのコーヒー生産についての記載は見当たらない。


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入手できた情報の中で最も古いボケテへの入植の記録は、現在、良質なコーヒー農園として有名なドンパチ農園だ。現在のボケテ区中心地(バホ・ボケテ)からやや西よりの、ボルカン区に至る途中の、カジェ・ホン・セコという地域(→地図)に位置するこの小規模な農園は、1873年、イタリア系の移民アントニオ・セラシーニによって開墾され、コーヒー栽培が行われていた。ただしこの当時の状況は、国外にはほとんど知られていなかったようで、MadrizとCasorlaが1878年に著した"Cultivo del café. Panama"では「パナマではコーヒー栽培が行われてはいないが、コーヒーに適した気候であり、今後の開発が期待できる」と言う趣旨のことが述べられている。


パナマのコーヒー生産が国外にも知られるようになったのは、19世紀末になってのことだ。1895年には、現在のボケテ中心から北寄りのアルト・リノ地区に、カリフォルニアから移住してきた J.R. トーマスが大きなコーヒー農園「サンタマリア農園 Finca Santa Maria」を開いている。このときトーマスは、シカゴに設立した「ボケテコーヒー商会 Boquete Coffee & Commercial Company」と契約を結んでアメリカへの販売を行っている*1。20世紀初頭には、この他にも多くの人がボケテ区に入植し(最初の移住ラッシュ)、それぞれが大小の農園を開墾してコーヒー栽培を開始していた。


1907年、パナマの法学者で政治家、作家でもあったエウセビオ・モラレス(Eusebio Antonio Morales)がボケテ地方を訪れ、当時のコーヒー農園についての記録を残している。上記のトーマスが所有する農園を筆頭に、アメリカ人、イギリス人、ドイツ人、パナマ人が所有する農園が40近くあり、合計で30万本以上のコーヒーノキが栽培されていた。そのうち最も大きいトーマスの農園は300エーカー(東京ドーム26個分)の広さがあり、75,000本のコーヒーノキを栽培していた。ただし収穫期の人手が足りず、多くの実が収穫出来ずに落果してしまっていたという。また二番目に大きいアメリカ人 J.F.デンハムの農園ではパルパーなど最新の機械*2が導入され水洗式の精製が行われていたこと、イギリス人ジェームズ・ローラーの農園では、単純な乾式の脱殻が行われていたことなどが記録されており、栽培・精製の方法は多様であったことが示されている。

*1:1916年にトーマスが亡くなるまで続いた。彼の死後、農園は遺族によって売却され、後に「ボニータ農園 Finca La Bonita」になっている。このようにパナマのコーヒー農園は、所有者の売買による変遷が多く、先述のドンパチ農園のように、先祖から受け継がれているところの方が少ないようだ。

*2:水洗式精製に用いるパルパーは1850年頃にイギリス人が開発し、スリランカカリブ海地域で用いられた。