メモ:マルチニークからのコーヒー栽培の流れ

メモ書き程度で。


ド・クリューがマルチニーク島に伝えたティピカが、中米のコーヒーの起源になったが、その伝播については正確な記録が残っておらず、曖昧である。資料によって、伝播の年代や経過の記述には違いが多くみられる。


マルチニーク島の農業事情:18世紀初頭、マルチニーク島ではそれまで盛んだったカカオ栽培に問題が生じ始める。1715年、カカオに大規模な虫害が発生したのを初め、1725年頃の多雨やハリケーンによる被害、そして1727年の冬の地震で壊滅的被害を受けた。これと入れ替わりにコーヒー栽培が伸びる。

  • 1723年、ド・クリューがマルチニークにパリ植物園由来のコーヒーノキを持ち込み、栽培に成功(エピソードは有名なので割愛)
  • 1724年、グアドループにマルチニークから持ち込まれ栽培開始(in Le café sur le marché français:他に1730説あり。1721説はおそらくド・クリューによる持ち込みを "1720s"とする文献から「翌年に」としたものの派生だと考えられ、破棄出来るだろう)
  • 1725年、サンドマング(後のハイチ)にマルチニークから持ち込まれ栽培開始(in El Cafe: これも他に1730説あり)

以降、サンドマング、グアドループ、マルチニークのカリブ海フランス植民地が、世界的産地として台頭。特にサンドマングの生産量が増加し、1750年頃には世界総生産半分を担う、最大の産地に発展する。しかしその後、ハイチ独立に伴う戦乱を経て衰退する。


他のカリブ諸島

  • ジャマイカへの移植:Nicholas Lawesが持ち込む(1730年サンドマングから?)。1728説もある。(1721説、1734説もあるが破棄できるだろう)。1718-22年にジャマイカ知事を務めた人物で1733に死亡。コーヒーを持ち込んだ三年後に死んだという説があるため、とりあえずは1730が有力か? Ukersは1730説を採用。
  • キューバには1748年、 Juan Antonio Gelabertがサンドマングからコーヒーを持ち込んだ。
  • スペイン領プエルトリコには1755年に(マルチニークから/in Ukers)コーヒーが持ち込まれた。(8/4追記プエルトリコ大学マヤグエス校のミゲル・イングレスによれば、1736年にサンドマングから持ち込まれたのが最初とのこと)

中米諸国

  • 時期的に早かったのはメキシコとコスタリカだと言われる。グアテマラも樹そのものの移入は早かったが、観賞用などのものだったと考えられており、作物としては二国にやや遅れる。
  • コスタリカには遅くとも1796年までに、フランシス・ナヴァロがキューバから持ち込んだと考えられている。1776に持ちこんだという説(in El Cafe)があるものの確証はない(Ukersは1779年、中林は1774年説を採用)。1819年には既に商業栽培が行われていた記録がある。コスタリカは周辺の中米諸国とは異なり、ヨーロッパからの入植者による小農園がコーヒー栽培の中心となり(他国では奴隷や雇用労働者による農園が多かった)、19世紀にはコーヒー栽培で大きく成長した。
  • メキシコはコスタリカよりも先に西インド諸島から導入していたと主張されるが根拠は薄い(Ukers、中林は共に1790年説を採用)。1802年に少量のコーヒー豆を輸出していた記録はあるが疑わしい。ただし1817年にはコルドバに伝わり、そこからメキシコ湾岸の州に広まった。大西洋側では1828年に伝わっている。また南部のチャパスやオアハカにはグアテマラ経由で遅い時期に伝わった(チャパスが1847年、オアハカはそれ以降)
  • グアテマラへの移入は、イエズス会のホセ・ナヴァロが伝えたものと言われ、現地の文献ではいずれも1750-60年代と考えられている(ただし、Ukersは1850年代/1875年説、中林は1755年説を採用)。チャールズIII世の治世(1759-1788)であったという記録や、1767年にイエズス会は国外追放されていることとも一致する。ただしこれらの文献ではイエズス会がイエメンのモカを持ち込んだという、非常に疑わしい記述があることから若干信憑性には欠ける。ジャマイカキューバから伝わったと考える方が自然である。
  • ニカラグアへの移入に関する資料は少ないが、1848年までに持ち込まれている。当初は、ニカラグア湖とマナグア湖の間の地域で栽培されたが、1887年には北東部のマダカルパに到達して有力な産地となった。19世紀末頃には先進的生産者のいる産地として知られていた。
  • ホンジュラスについての記録はさらに少なく、1858年には栽培されていた記録がある。