『医学典範』の理論と疥癬
イブン・スィーナーの『医学典範』でも疥癬についていくつか触れられているものの、彼の医学理論は基本的にヒポクラテスやガレノスの四体液説を継承、発展させたものであり、アッ=タバリによるヒゼンダニの発見については触れていない。
まずは『医学典範』での考え方について概説してみよう。ただしあらかじめ誤解のないよう言っておくが、これらは現在では否定された医学理論体系である。この手の古い理論は、しばしば「現代文明とか科学とか医学とか、そういうのを否定したい人」に祭り上げられがちであり、いわゆるニセ医療やニセ科学を主張する人が都合のいいところだけつまみ食いして、いい加減な「理論」を展開するのに使われがちである。そういったトンデモな学説は一切支持しない。以降の解説は、当時の人々の考え方をトレースし、その動機を推測するために行うものである。
ヒポクラテスやガレノスの「四体液説」の考えは、単純に言うと「人間には四種類の体液…血液、粘液(痰)、黄色胆汁、黒色胆汁があり、これらがバランスよく混合されている状態では健康だが、バランスが崩れると病気になる」というものである。これらは四大元素説と結びつけられており、以下のように対応している。
元素 | 季節 | 色 | 性質 | 方位*1 | 体液 | 臓器 | 味覚 | 気質(性格) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
空気 | 春 | 赤 | 熱・湿 | 南西 | 血液 | 心臓 | 塩味 | 多血質(陽気/軽薄) |
火 | 夏 | 黄 | 熱・乾 | 南東 | 黄色胆汁 | 肝臓 | 苦味 | 胆汁質(情熱/激昂) |
地 | 秋 | 黒 | 冷・乾 | 北東 | 黒色胆汁 | 脾臓 | 酸味 | 憂鬱質(慎重/神経質) |
水 | 冬 | 白 | 冷・湿 | 北西 | 粘液 | 脳 | 甘味 | 粘液質(公正/怠惰) |
イブン・スィーナーが四体液をどう考えていたかについては、『医学典範』を英訳した Gruner "The Canon of Medicine"(http://archive.org/stream/AvicennasCanonOfMedicine/9670940-Canon-of-Medicine_djvu.txt)に詳しい。基本的には彼はガレノスの考え方を踏襲しており、"humour"を「擬似的な物体 quasi-material」と呼んで、単なる「液体(fluid)としての体液」ではなく「気質」と結びつく概念として示している。"The Canon of Medicine"では (1) 血液 sanguineous humour(=血液)、(2) 漿液 serous humour(=粘液)、(3) 胆液 bilious humour(=黄色胆汁)、(4) 憂液(?) atrabilious humour (=黒色胆汁)*2、という名称が用いられている。なお、夏目漱石の『我が輩は猫である』にも四体液説が紹介されていて、それぞれを「気質」と結びつけて「血液・鈍液・怒液・憂液」という訳語が用いられてるが、これがガレノスやイブン・スィーナーの考え方に近いと言えるだろう。
またイブン・スィーナーはこの四体液とともにガレノスが唱えた「熱・冷・湿・乾」の四つの基本的性質、すなわち「四性 four primary temperaments」も重視した。その乱れの「証」(evidence of four primary intemperaments)は、Gruner "The Canon of Medicine" p.274で以下のように整理されている。
証 | 熱(hot) | 冷(cold) | 湿(moist) | 乾(dry) |
---|---|---|---|---|
病態の傾向 | 熱病になる炎症状態。 活力の欠乏 | 粘液に関連した発熱、リウマチ - | - 疲労 | - - |
機能 | エネルギーの不足 | 消化力の不足 | 消化不良 | - |
自覚症状 | 口内に苦味を感じる。 著しい渇き。 噴門に焼けるような感覚。 | - 飲み物を求める感覚の欠如 - | 粘液性の唾液がでる。 - 眠気 | - - 不眠、覚醒 |
身体所見 | 頻脈、疲労に伴う衰弱 | 関節の弛緩 | 下痢、下瞼のむくみ | 肌の荒れ、贅肉がない*3 |
食事と薬 | 温めるものは全て有害 冷やすものは有益 | 冷やすものは全て有害 温めるものは有益 | 湿った食事は有害 - | 乾いた薬は有害 湿ったものは有益 |
気候(季節)との関係 | 夏にとても悪い | 冬にとても悪い | - | 秋に悪い |
さて「疥癬」についてだが、Gruner "The Canon of Medicine"ではp.164から、各種の腫脹(swelling)について分類しており、その中の"cold swelling - papular swelling(丘疹)(p.168) - (3) both serous and atrabilious humour"、すなわち「漿液(冷・湿)と憂液(冷・乾)の異常による」ものの一つとして、疥癬 scabies の名前を挙げている*4。またp.227では塩水が体を乾かして(dry up)かゆみと「疥癬」を起こすこと、p.338では「疥癬」の所見の一つとして、尿に悪臭を生じることを挙げている。
これらの記述は現在知られている「疥癬 scabies」、すなわち「ヒゼンダニの寄生による疥癬」のものとは必ずしも一致しない。この当時、似た症状(皮膚の紅疹)を示すいくつかの病気がすべて「疥癬 scabies」と混同されて考えられていたためである*5。
*1:地中海から見た方位を指す
*2:元々「メランコリック(憂鬱)」の語源が melan-cholic、すなわち「黒色胆汁」である
*3:生まれつきの場合を除く
*4: Cyrus Abivardi "Iranian Entomology" p.481 http://books.google.co.jp/books?id=4o_YRth54O4C&pg=PA481#v=onepage&q&f=false では「彼(イブン・スィーナー)は、この病気を湿った疥癬(wet scabies)と乾いた疥癬(dry scabies)に分類した」とあるが、これも恐らく漿液(冷・湿)憂液(冷・乾)の二つの要素が関与することを指していると思われる。
*5:中世に八大伝染病とされていた当時には疥癬が梅毒と混同されたことが指摘されているが、近年の遺伝子解析の結果からも梅毒が新大陸起源であることが示唆されているため、この当時はまだ梅毒は旧大陸には存在しなかったと考えていいだろう。