第一次パンデミック
コーヒーさび病が最初に出現した記録が残っているのはケニアの奥地、ビクトリア湖周辺である。そこは奇しくも、カネフォーラ種(ロブスタ)とユーゲニオイデス種が出会ってアラビカ種の祖先が生まれたと考えられている地であり、またロブスタが初めて目撃された地でもある。コーヒー栽培がほぼ世界全体に行き渡った、1861年のことだ。当時はまだこの付近は未開の地にすぎず、この時人々は、まだコーヒーさび病の真の脅威に気付いてはいなかった。
コーヒーさび病は発見の7年後にはインド洋を渡って、1868年セイロン(スリランカ)に到達し、そこで爆発的な被害をもたらした。セイロンはオランダ人の手で、もっとも早くコーヒーがもたらされていた(1658年)地であったが、本格的な商業栽培が行われるようになったのは、イギリス統治下になってからである。生産も軌道に乗り出して、まさに「これから」という時期に、さび病がこの地を襲ったのである。以後、数年のうちにさび病はセイロン島全体に広がり、およそ10年後にはコーヒー栽培は壊滅、茶の栽培へと切り替えられたのは有名な話だろう。
セイロンでのさび病発生の翌年(1869年)には、隣接するインドでもさび病が発生した。その流行はセイロンよりも激しく、発生後まもなくインドのコーヒー栽培は「ほぼ壊滅」の状態になった。それでも山間地の一部には、被害を免れたコーヒーノキが残っていたと言われるが、後にインドでは耐さび病品種の開発研究がさかんになり、その過程で置き換えがすすんだ結果、旧来の品種は失われてしまったと言われている。
そしてさび病はついに、1888年、当時隆盛を誇った一大産地、ジャワ(インドネシア)にもおそいかかり、甚大な被害をもたらした。このためインドネシアでも従来の品種の多くは失われてしまった*1。