ザブハーニーの人物像

さて、この「ザブハーニー」とはいかなる人物だったのだろう? 実は、彼に関する記録は「絶望的に」少なく*1、上述したアブドゥル=カーディルの著書がもっとも詳しい。

『コーヒーとコーヒーハウス』を著したラルフ・ハトックスによれば、サハーウィーが編纂した15世紀後半の伝記集『輝く光 (al-Daw' al-lami)』には多少の記載があるという。没年が1470年である点などでもアブドゥル=カーディルの記録とも一致しており、少なくとも実在した人物には間違いがないようだ。残念ながら、私自身はサハーウィー『輝く光』の内容は確認できてないが、その中にザブハーニーがムフティーの地位にあったことや外国に旅したこと、そしてコーヒーを広めたことに関する記述は見られないそうだ*2。ハトックスによれば『輝く光』に記載された彼に関する説明は、以下の内容であるらしい。

彼(ザブハーニー)は若いころ真面目に勉強し、短期間教師をしたのちスーフィーになり、神秘主義的作品の著述に没頭した。彼は隠遁者で、外出するのは金曜日の礼拝か重要な人々に会うときだけだった。彼は神秘主義の本のほかにも多数の本を書いている。

(ハトックス『コーヒーとコーヒーハウス』斉藤・田村訳、同文舘(1993) p.23より)


サハーウィーの記述と、アブドゥル=カーディル(およびイブン・アブドゥル=ガッファール)の記述には若干の食い違いがあるが、どちらがより正しいのかについて判断することは難しい。

サハーウィーは1428年カイロに生まれ、1497年に亡くなった歴史学者であり、周辺の国々を自ら訪ねて伝聞した情報をもとに『輝く光』を書いたと言われる。ザブハーニーの生前に彼と直接会ったかどうかは判らないが、少なくとも彼の死後まもない時期の情報を得ることが出来た可能性はある。ただし彼の記録にはコーヒーに関する内容はない。この理由について、彼の時代のカイロではまだコーヒーはそれほど広まっておらず、サハーウィーがそもそもコーヒーを知らなかったため、関心を持たなかった可能性もあるとハトックスは考察している。

一方、アブドゥル=カーディルが引用している、イブン・アブドゥル=ガッファールのコーヒーに関する文書が著されたのは1530年頃と言われており、サハーウィーの時代よりも後になってからのことだ。おそらく原著にはザブハーニーに関する情報源についてもう少し詳しく記載されていたと思われるが、アブドゥル=カーディルによる引用部分ではアレウィ・イブン・イブラヒム以外の情報源は不明である。時代の違いから、イブン・アブドゥル=ガッファールの頃には、サハーウィーの頃よりも曖昧な情報が増えていた可能性はあるだろう。しかし彼は明らかに、コーヒーに関心を持って情報を集めていたため、サハーウィーが興味を示さなかった文献などからも情報を取り入れたかもしれない。


以上の内容から伺える、ザブハーニーの人物像は以下のような感じだ。

  1. 生年不明。没年は1470年。
  2. 出身地はアラビア半島にある"Dhabhan"という土地。
  3. 若い頃に「アジャム」という外国の地に行き、そこで人々がコーヒーの実を食べるのを目撃した?
  4. 若い頃は真面目に勉強し、その後スーフィーに転向した。
  5. 年代は不明だがアデンで、アル=ハドラミーとともに人々の前でコーヒーを飲む姿が目撃された。
  6. アデンではムフティーという重職につき、コーヒーの使用を是認するファトワを発した?
  7. スーフィーとして隠遁生活を送っていた?

いくつかの記述にはそれぞれ矛盾する点も見られるが、とりあえず順に見ていってみよう。


生没年

まずは彼の生年から…と言いたいところだが、生年についての正確な記録はない。ただし没年については、アブドゥル=カーディルとサハーウィー、両方の記述が一致していることから1470年というのはかなり信憑性が高いだろう。

またアブドゥル=カーディルの記録にある「ムフティー」は、その地の法学者たちのトップにあたる重職である。彼がいつ頃ムフティーであったのかは不明であるが、かなりの学問を修めておかねば務まらなかっただろうし、また若年者に務まる職でもないだろう。当時は現代よりも短命な人が多い時代だったとはいえ、上述のアレウィ・イブン・イブラヒムのように90歳を超える長老がいた記録もある。仮にもし1400年前後の生まれだとすれば、亡くなったのは70歳前後。もしユーカースが言うように15世紀半ばにアデンのムフティーとしてコーヒーを是認したのであれば、この頃に50歳前後…学者としては脂が乗った年代だといえるかもしれない。

これと同様と生年の推定は『コーヒーの真実』 (Coffee: A Dark History)の著者であるアントニー・ワイルドも行っているが、それについては後で述べたい。


"Dhabhan"探し

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以前(はじまりの物語6.5)も述べたが、そもそもド・サッシー『アラブ文選』において、この「ザブハーニー」の名は

  • Djémal-eddin Abou-Abd-allah Mohammed, fils de Saïd, et surnommé Dhabhani

と書かれている。"surnommé Dhabhani"…つまり「ザブハーニー」というのは、彼の「あだ名」である。アラビア人の名前ではニスバと言って、出身部族や出身地などに定冠詞"al-"を付けたものを、名前に付け足すことが珍しくない(このとき、さらに語尾が-iに変化する)。さらにその時代、その地域での著名人になると、ニスバなど名前の一部だけでその人のことを意味するようになり、こうなると「尊称(ラカブ)」と呼ばれる、一種のあだ名となる。ド・サッシーの訳では定冠詞"al-"が省略される傾向が見られ、彼は「アッ=ザブハーニー」"al-Dhabhani / adh-Dhabahani *3"という通り名で呼ばれたと考えられる。


ド・サッシーによれば、彼はイエメンにある"Dhabhan"という村の出身であったため、こう呼ばれたという。ただし、この"Dhabhan"(または"Dhobhan")がどこにあるのか、ド・サッシーも多くの地名辞典で探しまわったが特定できなかったと、訳注(26)で述べている。『アラブ文選』と同じく、アブドゥル=カーディルの『コーヒーの合法性の擁護』をもとにして書かれたアントワーヌ・ガランの文書でも同様の記載がある。

この"Dhabhan"、または"Dhobhan"はどこにあるのだろうか?


ド・サッシーはそこがどこかを特定することはできなかったものの、非常に重要なヒントを残してくれた。彼はこの部分に括弧書きでアラビア語の綴りについて以下のように補記している:

Ce surnom s'écrit par un dhal dont la voyelle est un fatha, ensuite un ba quiescent, un ha dont la voyelle est un fatha, un élif suivi d'un noun avec un kesra pour voyelle:


邦訳:その通り名はこう綴られている: 発音記号*4ファトハ(fatha)が付いたダール(dhal)、子音のみのバー(ba)、ファトハが付いたハー(ha)、アリフ(élif)、発音記号ケスラ(kesra)付きのヌーン(noun)

この補記からアラビア語で表すと、右図の上段のようになる。アラビア語は右から読むので"Dh-(a)-b-h-(a)-a-n-(i)"、アラビア語では原則、母音には"a-u-i"の三つしか区別されないらしく、"Dh-(o)-b-h-(a)-a-n-(i)"と聞こえる可能性もあるようだ(ド・サッシーの脚注26)。また、これに定冠詞"al-"と語尾に"-i"を付加したもの(右図下段)が、彼の通り名(ラカブ)になる*5


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さて。最近のインターネットは本当に便利になった。Wikimapiaという、地図版のWikipediaみたいなサイトがあり、ここでこのアラビア語のスペルで検索すると、イエメンにこれと同じ地名の場所があることがわかる。

タイッズから南へ約42km、タイッズ県の南部に位置する。ラヒジ県との県境に近い場所で、南に行けばすぐラヒジの平野が広がっている。アデンまでは東南東に約85km,モカまでは西に約95km。アデンとモカを直線で結んだ中間地点から、ちょっとだけ北にずれたくらいの場所である。


また下記のような景観写真もある。ここでの地名は英語で"Thobhan"と綴られている。静かで美しい村の風景である。

現在も、この"Dhabhan"ないし"Thobhan"に暮らす部族出身の人がイエメンでは"al-Dhabhani","al-Thobhani"というニスバを名乗っていて、それなりの人数がいるようだ。


他にいくつかの候補を考えてはみたものの*6、結局のところどうも、ド・サッシーが書き残したアラビア語の綴りと全く同じ、ここがいちばん「もっともらしく」感じられる。ここからアデンまでは目と鼻の先なこともいかにももっともらしく、この土地出身の者がアデンへ出て行くことは至極自然なことに思われる。このため、このタイッズにある "Dhabhan / Thobhan"をザブハーニーの出身地の最有力候補として挙げておきたい。


この"Dhabhan"は地図で見ると判るように、タイッズの南に連なる山系の南端に位置する、山岳の小村である。この山系の北端にはタイッズの南に近接するサビル山がある。西にコーヒー輸出港として有名なモカを、南東にはコーヒー利用の初期の記録が残るアデンを、それぞれ臨むこの山系も、最初期のコーヒー栽培地候補の一つである。1544年にオスマン朝のスルタンが、サビル山でカートからコーヒーへの転作を奨励した記録が残っており*7、文献上でコーヒー栽培がはっきり明記された最初の場所のようだ。

ザブハーン自体も標高1000mを超える山地に位置し、高さ的にはコーヒー栽培が可能な立地だ*8。しかし彼が自分の故郷でコーヒーに出会っていたことを伺わせる記録はない。またザブハーンからサビル山までたかだか約40km、しかも同じ山系に属しているため、サビル山である程度の規模でコーヒー栽培が行われたならば、その噂はザブハーンに暮らす人々の耳にも届くと考えるのが自然に思える。サビル山からザブハーンにかけての地域でコーヒー栽培が始まったのがいつ頃かははっきりしていないが、それは若きザブハーニーが故郷を離れた後だったかもしれない。上述のように彼の生年を1400年前後と仮定すれば、15世紀に入ってしばらく経ってからのことになるだろう。

*1:ハトックス『コーヒーとコーヒーハウス』同文舘 p.23

*2:ハトックス p.24

*3:al-の後の子音dhが太陽文字であるためlは発音されず、平たく言うと「促音化」する。"adh-"はこの発音に即した表記。

*4アラビア語は、ローマ字とは異なりアルファベットの子音部分だけを並べて綴るようなもので、子音部分をどう発音するか(=母音部分)という読み方が記載されないことが多い。その読み方を指定するためシャクルと呼ばれる発音記号をそれぞれの文字に付記することがある。ルビを振るようなものだと考えればいいだろう。ファトハは"-a"、ケスラは"-i"である。無母音を表すシャクルはスクーンと呼ばれる

*5:なおダール(ザール dhal)の発音は、英語の"the"の"th"と近いため、発音上では「ファトハ付きのダール」は"dha"以外に"dho","tha","tho"などが当てられる可能性がある。

*6:例えば、サヌアの西のDhahban、ジェッダの近くにある Dhahban 、ハドラマウトにある Shi'b Dhabahanなど。ただしいずれもド・サッシーの綴りとは合わない。

*7アントニー・ワイルド『コーヒーの真実』

*8エチオピアに見られるアラビカ野生種の生育可能域が標高950-1950mである。