スーフィズムとシャーズィリーヤ教団

さて『世界の鏡』に書かれたシャイフ・ウマルの伝説であるが、そもそもこのウマルなる人物が実在したかどうか、これが結構怪しい。まず彼の名前は「ウマル/オマール Omar」としか伝わっておらず、父の名前や出身も不明である。


一方、彼の師として名前が出て来る「アッ=シャーズィリー」だが、こちらの方は実在したどころか、大物中の大物である。13世紀以降チュニジアやエジプトなどを中心に活動した、スーフィーの一大教団である「シャーズィリーヤ教団」を作った人物である。


スーフィーとは何か」については、以下の文章が判り易くまとまっているので参照されたい。


スーフィーとは、8世紀頃からイスラム教の信者の中に現れた神秘主義者を指す言葉であり、当初は粗末な毛布(スーフ)だけを身につけて禁欲的な生活を送る修行者たちであった。9世紀から10世紀にかけて官僚や学者(ウラマー)たちによってイスラム諸学が厳密に体系化された頃、その形式主義に反発し、内面性を重視する彼らは、一般の民衆に近い立場から権威者らに対して批判的な姿勢を採った。一方で、スーフィーの中には神秘体験を通じて神との合一を果たそうとするなどイスラームの教義から見て異端的な者が現れ、正統な学問の立場からは異端視されることが多かった。しかし、11世紀の偉大なイスラム学者であるガザーリースーフィズムを受け入れたことなどで、徐々に認められるようになっていった。

12-13世紀になると、スーフィーの教団化が各地で見られるようになる。スーフィーたちは修行を重ねることによって、自らの精神をより高い段階へと高め、最終的には自分の内面にある神の精神に触れることを求める。そのため高い修行の階梯にある者に弟子入りして、その下で修行することが広まった結果、多くの「弟子」を持つ師(指導者)を頂点とする、スーフィーの教団(タリーカ)が生まれた。こうした教団の指導者は、しばしば「聖者」として扱われ、「神の友人」を名乗り、その恩恵として「奇跡」を体験したことをアピールするようになった。このことは、本来のイスラムの教義とは必ずしも相容れない「聖者信仰」の拡大を招いたが、同時にスーフィズムの民衆への普及にもつながった。


アッ=シャーズィリーもまた、こうしたスーフィー教団の一つである、シャーズィリーヤ教団を創ったことで知られる「聖者」の一人である。

アッ=シャーズィリーは1156年、イベリア半島と近接するアフリカ大陸北端のセウタ(現在はスペインの飛地領)で生まれた。彼はフェスの町で勉学に励み、後年はアレクサンドリアに移り住んだ。彼は若い頃イラクへ行き、偉大なスーフィー、アル=ワシティに教えを乞うたが、「旅の出発地に戻れば、道を見つけることができるだろう」という啓示を受ける。そこで彼は生まれ故郷セウタに戻り、そのすぐそばのベニ・アロスで暮らしていた偉大なスーフィー、イブン・マシーシュ(http://en.wikipedia.org/wiki/%E2%80%98Abd_al-Salam_ibn_Mashish)に出会い、彼の弟子となった。

やがてアッ=シャーズィリーが指導者として独り立ちすると、多くの人が彼の元で学び、大勢の弟子や信徒ができた。特にハフス朝時代のチュニジア(首都チュニス)や、アイユーブ朝時代のエジプトで信徒数を増やした、この時代で最も成功をおさめたスーフィー教団の一つに成長した。その後、シャーズィリーヤ教団からは多くの分派が生まれ、その流れを汲む教団は現在にもつながっている。