イギリス領タンガニイカから現在へ

タンガニイカを植民地化したイギリスは、ドイツ領東アフリカ時代のコーヒー栽培を引き継ぎ、ブコバとモシ地方での栽培を続けていこうとした。1919年から1925年の間に、イギリスはブコバに1000万本ものコーヒーの苗木を移植した。さらに、ブコバ地方の伝統的なハヤコーヒー栽培を前時代的で効率の悪いものと見なしたイギリスは、1928年から1937年の間に、それを新しいコーヒー栽培に切り替える土地利用改革を断行しようとした。

ドイツ時代、ハヤ族は自分たちの食べる作物を栽培する土地や労力をコーヒー栽培に回したが、それでも伝統的なハヤコーヒーの栽培を守りぬいてきた。しかしイギリスは結果的に、それだけではあきたらず、ハヤ族の伝統まで奪おうとしたのだ。当然、このことはハヤ族の反発を招き、ブコバでは新たに移植された苗木を引き抜くなどの反乱が相次いだ。このため、1930年から1950年にかけて、ブコバでのコーヒー生産は停滞したと言われる。


これと対照的だったのがモシ地方である。ドイツ時代の農園では白人農園主が、チャガ族を安い賃金で働かせ、コーヒー栽培を行っていた。第一次大戦後に、これらの農園をおさめたイギリスの農園主たちも同じ体制を維持しようと考えた。しかし、1920年代にキリマンジャロ地区の長官となったチャールズ・ダンダスは、チャガ族に好感を持ち、この地区で小自作農としてコーヒー生産を行えるように便宜を図ったのである。このことがチャガ族の励みとなり、キリマンジャロでのコーヒー栽培は大きく拡大した。


だが皮肉な事に、この躍進によって結果的に支配層の注目を集め、新たな問題を生じる事になる。


一つはイギリスによる販路独占との対立である。独立した小自作農は、当然、自分たちの作るコーヒー豆を出来るだけ高く買ってくれる相手に売りたがった。しかし、それではコーヒー豆を独占し専売体制を築き上げようとしていたイギリス側にとっては都合が悪い。そこで1925年に、KNPA(Kilimanjaro Native Planters' Association、キリマンジャロ先住民栽培者協会)が設立され、コーヒー豆の販売はKNPAが行うという方針を打ち立てた。しかし、この方針は多くのコーヒー農家に無視されて破綻した。そこで、1931年にはKNPAを廃止し、代わりにKNCU(Kilimanjaro Native Co-operative Union、キリマンジャロ先住民栽培者協同組合連合会)を設立し、先住民らの「協同組合方式」によって、コーヒー豆の販路を一本化する方針に切り替えた。KNCUはイギリスからの独立を果たした今でも、タンザニアにおける流通業者としての役割の一端*1を担っている。


もう一つは農地問題である。白人の農園主に雇われていたチャガ族の労働者たちの多くが自分の農地を欲したが、当然、土地には限りがあったし、条件のよい土地もあれば、そうでない土地もあった。イギリスの統治者たちは、白人農園主たちの大規模な農園による栽培の方が、チャガ族小自作農の農園よりも生産性が高いと考えていたため、条件のよい地域は依然白人たちによって独占され、先住民たちには生産性のよくない土地があてがわれることも多かった。


その後、第二次世界大戦後、世界的な脱植民地化が進む中、1961年にイギリス領タンガニイカも独立を果たす。1963年にはザンジバルもイギリスから独立、さらに革命による政権交代が起こり、両国は汎アフリカ主義の元に連合し、1964年、現在の「タンザニア」が誕生したのである。


キリマンジャロでのコーヒー栽培は、部分的にとはいえ、植民地支配下で「農地解放」された例外的なものだと考えていいだろう。しかしそのことが必ずしも全ての問題解消につながったわけではなく、また新たな問題を生じた……人の営みが全てそうあるように。現在もキリマンジャロのコーヒー農家はさまざまな問題に直面しているが、それについては、辻村先生の『おいしいコーヒーの経済論』 (http://www.amazon.co.jp/dp/477831171X)を参照されたい。

*1:現在、タンザニアではこの(1)生産者→単協→KNCU→加工工場/検査所という「組合経路」の他、(2)生産者→民間業者→加工工場/検査所という「民間経路」の二つのルートがある。KNCUの業績は悪化の一途を辿っており、民間による競売などが盛んになりつつあるという。