「ドイツ領東アフリカ」時代のタンザニア

ドイツ領東アフリカでは、植民地政策としてコーヒー栽培に本格的に着手しようとした。当初、東ウサンバラでのコーヒー栽培を行ったが、雨が多すぎる気候のため収穫量が少なく、また現地人の労働に対する意識がドイツ人の想定したものとかけ離れていたこともあって、失敗に終わった。この経緯については、臼井先生の名著『コーヒーが廻り世界史が廻る』(http://www.amazon.co.jp/dp/4121010957)に詳しい。その後ドイツによる支配に対する先住民の反発から、1905年から1907年にかけて東アフリカ南部でマジ・マジ反乱が勃発する。ドイツは武力鎮圧に成功したが、東アフリカ植民地の立て直しが急務となる。そこで反乱の影響が少なかった北部のコーヒー栽培に再び期待が集まることになる。


東ウサンバラに代わる産地としてドイツが注目したのは、上述のブコバ地方と、ケニアとの国境付近にあるモシ地方の二箇所であった。前者はハヤ族によって伝統的な「ハヤコーヒー」の栽培が行われていた地方である。そして後者が「あの」キリマンジャロ山を臨む地方である。

ドイツがもっとも期待して力を注いだのは、ビクトリア湖の西側に位置するブコバ地方での栽培であった。気候風土もさることながら、東ウサンバラの失敗から先住民を労働力として使うことの難しさを学んだドイツ人たちは、コーヒー栽培の経験があるハヤ族ならば上手くいくと考えたのだろう。1911年、ドイツはブコバ地方のハヤ族たちにコーヒーの種子を配り、強制的に換金作物としてのコーヒー栽培を行わせた。しかし、この政策はハヤ族の伝統的なコーヒー栽培を貶めるものでもあった。種子の配布はハヤコーヒーの持つ伝統的な価値や族長の権威を低下させたし、新しいアラビカ種のコーヒーはハヤ族の口には合わなかったようだ。それでもしかし、ハヤ族は不承不承ドイツの命令に従い、自分たちの作物を減らし*1、その分、ドイツのコーヒー栽培を行った。


一方のモシ地方、「キリマンジャロ」に初めてコーヒーを持ち込んだのは、ギリシア人の入植者だったと言われている。その後1903年頃からはイタリア人やイギリス人、少し遅れて1907年からはドイツ人がこの地方でのコーヒー栽培に乗り出した。後のタンザニア、いや東アフリカのコーヒーを代表する一大銘柄「キリマンジャロ」の始まりであるが、開拓当時はもちろんネームバリューもなかったし、世界的に*2注目されるのはもっと後になってのことだ。

モシ地方はチャガ族と呼ばれる部族が暮らす地域であった。チャガ族にはハヤ族のような伝統的コーヒー栽培の風習は存在せず、牛や山羊の牧畜と、バナナ栽培などの基本的農業だけを行っていたらしい。このためチャガ族は比較的素直に、近代的なコーヒー栽培を受け入れていったと考えられている。


このようにして、ドイツは当初の失敗を取り戻し、徐々にではあるがコーヒーの生産量を増やしていくことに成功しつつあった。ブコバ地方からの輸出量は、1905年から1912年の間に、234tから681tまでに増加した。にも関わらず、この当時「ドイツ領東アフリカ」産のコーヒーについてヨーロッパでの認知度は小さかった。ドイツは、東アフリカで生産したコーヒー豆をイエメンのモカ港に運び、そこから「モカ」の銘柄で輸出するという方法で、より高値で販売していたためである。


こうして何とか軌道に乗り出した矢先の1914年、第一次世界大戦が勃発する。そして1919年のヴェルサイユ条約によってドイツの敗戦が決定すると、ドイツ領東アフリカは分割され、その西側(現在のルワンダブルンジ)がベルギー領、南の一部(現在モザンビークの一部)がポルトガル領、そして残りの大部分を占めるタンガニイカ地域はイギリス領になった。

*1:食用とする作物の自給自足手段を奪い、換金作物を作らせることは、現地の労働力を確保する上で重要な施策でもあった。

*2:「世界的に」と言いつつ、海外では意外に注目されていない銘柄なのだが…。日本での知名度は異常に高いが、これは臼井先生や辻村先生が指摘するように、映画『キリマンジャロの雪』が公開された当時に行われた宣伝効果が大きかったためだと考えていいだろう。